静かな礼拝堂の中で美雨はゆっくりと息を吸い込んだ。
―― やっぱり息がしやすい ――
清められた空気はとても澄み、ひとつ呼吸をするたびに自分の中までもが浄化されていくような気持ちになる。美雨は口元まで隠してあったストールを少しだけ下ろし、静かに目を閉じた。
変装をして礼拝の見学をしてから二日、美雨は最低でも日に二度は礼拝堂に通った。
クートの提案を受け、礼拝時ではなく人気のない時間にほんの少しだけではあるが、静かで清らかな空間では美雨もふっと肩の力が抜け、とても心地良く思える時間だった。
それにしても、と美雨は思った。
顔見世の時に見せた一瞬の笑み。礼拝堂へ来る為の提案をしてくれたこと。そんな些細なことではあるが、この大陸に来てからというもの、クートの雰囲気がほんの少し軟化したように感じる。
このままいけば以前、マティアスが言っていた"事情"というのが何なのか、クートの口から聞ける日も来るかもしれない。
敵愾心を向ける理由が分からなければ直すことも、謝ることも、反論することも、何も出来ないのだ。知るのは怖いが、知らずにいることの方がよっぽど怖い。
そんなことを考えながらしばらく目を閉じていた美雨だったが、そろそろ戻らなければ、と頭の片隅で思い始める。
誰にも言わずに来てしまったから、自分が部屋にいないことに気付かれてしまえばきっと要らぬ心配をかけてしまうだろう。というのも、さっきまで部屋で一人、文字の勉強をしていたのだが、お手洗いに立つ時にふと思い立ってここへ足を向けたのだ。人がいたらすぐに立ち去るつもりだったが、そろりと覗いたそこには誰もおらず、少しだけ、と中へ入り今に至る。
いつも必ず誰かしらがそばにいるということが知らずに負担になっていたのだろうか。早く戻らなければ、と分かっていながらも、自分以外に誰もいないこの時間が貴重に思えてなかなか腰が上がらない。
―― あと少しだけ…… ――
そう思った時だった。
「ようやくお会い出来ました」
突然そばで聞こえた声にびくりと肩を跳ね上げ、美雨は目を開いた。
確かに誰もいなかった礼拝堂の中、いつの間に来たのか、目の前に一人の見知らぬ男が立っていた。扉の音も足音も、一切気付かなかった。
美雨の警戒に気付いたのか、男は目元を和らげ、目深に被っていたストールをするりと外した。薄茶色の髪がランプに照らされ、柔らかに揺れる。
「申し訳ありません、驚かせてしまいましたね」
「………」
「初めまして、ミウ様。エゼリオと申します」
紳士的な態度がかえって美雨の警戒心を煽る。大体、白い服を着ているとはいえ、ストールを目深に被った状態でそんな簡単に気付くだろうか。
「……何か、御用ですか」
警戒を解かないまま尋ねる美雨に、エゼリオは気を悪くする素振りも見せず、にこりと微笑んだ。
「ええ。貴女にお聞きしたいことがありまして」
「聞きたいこと?」
そう問い返せばエゼリオは笑みを崩さぬまま頷いた。
「貴女はこの世界の慣習をどう思われますか?」
「慣習……?」
「忌み子は排除する、という慣習のことです」
美雨の肩が微かに震えた。"忌み子" という言葉に過敏に反応してしまったのだ。
「双子として生を受けただけで罪もなくただ殺されていく。そのことを貴女はどう思われますか?」
「……それ、は…」
喉の奥が閊えたように声が掠れた。
こんな質問、どうしたっておかしい。神殿の教えを信じている人ならきっと言わないし、考えもしない。これでは神殿の教えを否定しようとしているみたいだ。
どういった意図でこんなことを問うているのか分からないが、安易に答えないほうがいい。そう分かっていても何故かエゼリオから目が離せなかった。
じっと答えを待つ彼の瞳は笑みを浮かべているにもかかわらず、どこまでも仄暗く、まるで底が見えない。その瞳に促されるように、気付けば美雨の口から答えが転がり落ちていた。
「………ひどいことだと……思います…」
そう言った瞬間、エゼリオの瞳がふわりと蕩けた。
「ああ……やはり我々の目に狂いはなかった」
美雨が座る足元に跪き、エゼリオは恭しく彼女の手を取った。
「ずっとお待ちしておりました………我らが巫女」
「え………?」
彼の言った言葉に美雨は困惑した。待っていた、というのはどういうことだろうか。
「どうか我らの元へ来て下さい。貴女はそちら側にいるべき方ではない」
「何のことですか」
「闇の神、リグド」
その言葉にびくりと大げさなほど肩が跳ねた。
「もちろんご存知ですよね? 光の神と対になる兄妹神。貴方と同じ、"先に生まれし者" です」
「………」
「光の巫女がいるのなら、闇の巫女もいて然るべき。貴女こそ我らが待ち望んでいた "闇の巫女" です」
「でも……私、は……ちゃんと認められて…」
「本当に?」
エゼリオの見透かしたような声に、美雨の心臓が嫌な音を立てる。
「この神殿の教えは聞かされているでしょう? 光こそ全て、闇は葬り去るもの。あの悪しき慣習を一番強く信じている場所だ。その神殿が "先に生まれし者" である貴女を本当に巫女として認めている、と?」
「……っ…」
「光の巫女が消え、次に現れた貴女を体良く利用しているだけではないのですか? 姿形がそっくりな貴女を、身代わりとして祭り上げているだけでは?」
下から見上げてくるエゼリオの瞳はとても柔らかいのに、その形の良い唇から出てくる言葉はどんなものより鋭く、美雨の心の中に痕を残していく。
聞いてはいけない、と頭の中では警鐘が鳴り響いているのに、優しく握られている手を振りほどくことも出来ずにいた。
「貴女を護る為の四神官、彼らだって本当に貴女を信じているのか怪しいところですね」
「………」
「彼らは神官の中でも特に優秀とされる者たち、神殿の教えを信じる筆頭です。その彼らが何の不満も持たず、"先に生まれし者"を巫女として信用するでしょうか」
エゼリオの言葉に美雨は無意識に首を振った。違う、と思いたかったのかもしれない。
「特に一人、不満を強く持っている者がいますよね」
そう言った瞬間、美雨の瞳が揺れた。誰のことを言っているのか、すぐに分かってしまったからだ。
「どうしてあれほどまでに敵意を抱くのか、理由をご存知ですか?」
「え……?」
それは先ほどまで知りたいと思っていたことだった。クート自身の口から聞かなければいけないと分かっていたのに思わず躊躇ってしまった美雨の隙をエゼリオは見逃さなかった。
「彼の妹は光の巫女、つまり貴女の妹に仕えていたのですよ」
「美陽に……?」
思いもよらなかったことに目を瞬かせる。エゼリオは物語を紡ぐように続きを話した。
「ところがある日、巫女が突然消えた。そのことによって精神を病んでしまったのです。孤児院で育った彼らにはお互いしか肉親はいない。たった一人の大切な家族を傷付けられれば、その原因となった貴女を簡単に許せはしませんよね」
クートのあの仇敵をみるような眼差しの理由を聞かされ、美雨は呆然とした。
「そんな彼が貴女を光の巫女と認めると思いますか?」
「………」
「ただ、光の巫女がいなければ世界は崩壊する。だから誰でもいいから巫女としなければならなかった」
―― やめて…… ――
その先は聞きたくない。聞いてはいけない。
しかしその願いも虚しく、エゼリオの声は静かな礼拝堂の中ではっきりと美雨の耳に届いた。
「異界から呼ばれたものであれば誰でもよかった。例えば、そう………貴女でなくても」
美雨の瞳が頼りなげに揺れた。
頭の中に鳴り響いていた警鐘はどうしてかピタリと止まり、まるで彼の言葉を聞けと言わんばかりに静まり返った。
「だが、我々は違う。リグドと同じ業を負い、悪しき慣習を嘆く貴女こそ、唯一絶対の巫女だ。貴女の代わりなどいない」
―― だめ………これ以上、聞いてはだめ… ――
そう思っているのに体は金縛りにあったかのように動かず、ゆっくりと立ち上がるエゼリオを目で追うことしか出来ない。逃げ出そうともしない美雨に彼は恍惚と微笑み、その白い頬に手を添えた。
「ずっと待ち望んでいた闇の巫女……どうか我らの元へ」
屈むようにして目線の高さを合わせた彼と間近で視線が交わった。蜂蜜を混ぜたような榛色の瞳がトロリと蕩け、美しい笑みを浮かべる。
その瞳に捕らわれた美雨の耳元に唇を寄せ、彼は密やかに囁いた。
「他の誰でもない、貴女だけが必要です」
それは甘い甘い毒のような言葉。
ジワリと内側に滲み、隠していた何かを引き摺り出そうとするように、深い部分まで侵食していく。
血の気の失せた美雨の頬に温かく柔らかいものが触れ、そのあとを追うようにするりと指先で優しく撫でられた気がしたが、霞みがかったような思考回路ではロクに反応も出来なかった。
微かな温もりが消えた時にはもうエゼリオの姿はなくなっていた。
あれからどうやって部屋に戻ったのか覚えていないが、気付けば部屋の前に立っていた。ドアノブに手を掛けようとした時、後ろから柔らかな声が聞こえた。
「ミウ、さっきカヤが探して……」
のろのろと振り返れば銀色の髪が目に映る。彼は一瞬瞠目し、すぐさま心配そうに眉を下げた。
「どうしたのですか? 顔が真っ青ですよ」
「あ……」
自分の顔色など分かりもしないが、手足の先が異常なほど冷え切っているように感じる。
「とにかく中へ」
そう言ってレイリーは美雨の肩を抱き、扉を開けて中へと促した。優しくベッドに座らされ、その横に浅く腰かけたレイリーがすぐさま診始める。
「随分と肌が冷たくなっている……吐き気や眩暈はありますか?」
ふるふると小さく首を振る。
「何処か痛むところは?」
それにもやはり首を振った。流石におかしく思ったのだろう、レイリーの眉根がほんの少し寄せられた。
「ミウ、今どこに行っていたのです? 何か……あったんですか」
その問いかけに美雨の肩がピクリと震えた。
それに気付いたレイリーは美雨の手をそっと取り、冷え切った指先を温めるように包み込んだ。触れられているのにその温もりがひどく遠くに感じる。
「すみません、問い詰めてしまいましたね」
「………」
「大丈夫、無理に聞こうとはしません。話してもいいと思えた時に聞かせて下さい」
安心させるような凪いだ声。その声で動揺していた心が幾分か落ち着いたような気がする。
大きな手が美雨の髪を優しく撫で、そのまま肩へ滑り降た。優しく力を籠められて後ろへ傾ぐように押されると、彼女の体は何の抵抗もなくベッドに沈んだ。真上にある琥珀色の瞳を見るともなしにぼんやりと見つめる。
「今はただ目を閉じて、このまま休んで。すぐ側についていますから何かあれば呼んで下さいね」
そう言ってレイリーは身を起こすと美雨の体に上掛けをかけ、それから彼女の視界を掌でそっと塞いだ。
彼の掌と声に促されて閉じた瞼の裏にエゼリオの姿が浮かぶ。
耳元に唇を寄せられた時、はらりと弛んだ襟元から覗いた肌に刺青が見えた。鎖骨のあたりに入れられた、逆さまの花。この世界で見た花はパティゼアしかないが、あの形にすごく似通っていたように思う。
一つの茎から二つに分かれた花は片方が咲き、もう片方はつぼみのまま。
黒く塗りつぶされたそれはシルエットともとれるが、美雨にはそうと思えなかった。闇を連想させる漆黒の花。
―― きっと言わなきゃいけないのに……どうして… ――
神殿に反逆の意を唱える人物だ、警戒対象としなければならないのは明らかなのに、どうしてか彼のことを口にすることが出来なかった。
そんなことを考えていた美雨だったが、精神的に疲弊していたのだろう、次第に意識が霞がかり、緩やかに暗闇の中へと落ちていった。