夕暮れ前、顔見世の為に美雨達は神殿を発った。
 クートに抱えられながら美雨は馬上で小さく息を吐く。
 先頭にディオン、二人より少し後ろにマティアスとカヤ、レイリーが控えているが、顔見世で気を張っているのは元より、昨日の一件も拍車をかけているのか、彼らの周囲には何処かピリピリとした空気が漂っていた。
「あと少しだ。我慢しろ」
 気付かれないように息を吐いたつもりが、クートにはバレていたらしい。後ろから唐突に掛けられた言葉に思わずびくりと肩を震わせた。
「あ、いえ……すみません」
 謝りながら振り返ると、クートは眉根を少し寄せて黙り込んだ。何か言いたげに口元が動いたような気がしたが、それきり何も話そうとはしなかったので、気のせいかと再び前を向いた。
 馬の蹄が煉瓦の上に積もった砂を踏みしだく音を聞きながら、美雨は目元のみを残して頭から被ったストールの口元を少しだけ下げた。
 先日よりは風が弱いようであまり砂は飛んで来ないが、乾いた空気と逃げ水が見えるほどの熱気が体の中に直に入ってくる。
 そのまま辺りを見回しているとおもむろに後ろから伸びてきた手がストールをグイッと引き上げた。
「広場に着くまでは覆っとけ。ここの風は慣れないと喉を傷める」
「すみません」
 そう言うと後ろからくぐもったため息が聞こえてきた。また何か気に障ってしまっただろうか、と考えていると、クートが苛立ちを含めた声で言った。
「いちいち謝るなよ」
 相変わらず乱暴な物言いだが、どうしてか今の言葉は美雨には冷たく聞こえなかった。
「……はい」
 それきり会話が途切れたまま道を進み、しばらくして漸く開けた場所に辿り着いた。
 演説をするような壇上があり、その周りには街の者たちと思われる人々が集まっている。近付くにつれ大きくなっていたざわめきは、美雨達の姿を認めた途端にシンと静まり返った。
 ディオンを乗せた馬が進むとその近くにいた者たちは自然と道を開け、その様は後ろからだとまるで魔法のように見える。
 壇上の側で馬の歩を止め、ディオンが身軽に鞍から降りる。それに倣うようにクートもひらりと降り、それから美雨に手を差し出した。
 その手をきゅっと掴み、美雨はゆっくりと鐙に足をかけた。するとかかりが浅かったのか、足を滑らせた美雨の体がバランスを崩し、後ろに反るように倒れた。
「っ」
 思わず息を呑んだが、次に来たのは思っていた衝撃ではなく、硬い腕の感触だった。
「……何してんだよ。民衆にみっともないとこ見せるつもりか」
 耳元で聞こえた声。
 足を踏み外すという情けない失態と、後ろから抱き締められているようなこの体勢にカッと羞恥が込み上げる。
「すみま……あ…」
 先程言われたことを思い出し、反射的に口をついて出た言葉を引っ込める。ちらりと彼を見やれば呆れたような視線が返ってきた。
「いいからさっさと立てよ」
「あ、ありがとう」
 ハッと我に返った美雨は抱き留めてくれていた腕から慌てて離れ、小さく礼を述べた。どうやらクートは自分の背に上手く隠して民衆からは彼女の失態が見えないようにしてくれていたようだ。
「行くぞ」
「はい」
 他の皆もすでに馬から降りて準備は整っているようだ。一度深く息を吸い込み、気持ちを切り替えた美雨は目の前に差し出されたクートの手を取った。




 彼にエスコートされながらゆっくりと段を上り、中央まで来たところで足を止めた。緊張からかやけにのどが渇き、コクリと小さく喉を鳴らす。
「巫女」
 クートの呼び声に促され、美雨は顔を上げ、真っ直ぐに前を見つめた。
 壇上から見下ろす色とりどりのストールを纏った人々。その隙間から覗く瞳には不安の色ばかりが映る。
「それではこれより顔見世を行います」
 マティアスの耳触りのいい声が朗々と響き渡った。
「ストールを外して皆に顔を」
「はい」
 横からクートが小声で指示を出した。それに従い、口元を覆うようにしてあった巻きを緩め、頭に被せていた部分をスルリと後ろに滑り落とす。
 美雨の顔がはっきりと民衆に晒された瞬間、ざわめきが戻った。
 彼らが何を言っているのかはよく聞き取れないが、おそらく今までの所と大差ない事だろう。それでも旅を続けている間に噂は広まっているのか、最初の顔見世のような暴動が起きる気配は今のところない。
 ちらりと壇の下を見れば視線が合ったマティアスがまるで大丈夫だよ、とでも言うように穏やかな笑みを返した。それから彼は民衆へと向き直り、詩を読むような滑らかさで口上を述べる。
「人の世に多くの災いを齎す闇の時代。それを打ち祓うは古より伝え聞く"光の巫女"。女神レゼルの娘はやがて空に光を取り戻してくれることだろう。今ここに集いし皆の心を巫女に預け、祷りを届ける力とならんことを」
 再び訪れた一瞬の静寂。そこから少しずつざわめきが広がっていく。
 あからさまに不満げな顔で口々に何かを言う者。不信感を拭えないでいる者。分かってはいたことだが、やはり美雨の訪れを手放しに喜んでくれる者はいない。
 しかし、それらを聞いてもマティアスは狼狽えることもせず、毅然とした声音で続けた。
「皆、噂などで聞き及んでいる者が殆どかと思いますが、彼女は前巫女の双子の姉君です。しかし女神レゼルの加護を受け、こうして先の二つの神殿での神事も終えてきました。それだけでも祈りを捧げるに足るお方だとは思いませんか?」
 マティアスの言葉を以てしてもざわめきは一向に治まる様子を見せない。
 美雨は手にしていたストールをきゅっと握り締めた。人々から集まる視線は刺さるような痛みさえ感じられそうなほどだ。
 北の大陸で行った初めての顔見世のことが頭を過り、思わず俯きそうになった時、クートの声が聞こえた。
「俯くな」
 その言葉にハッとして俯きかけた視線が止まった。
「覚悟、してきたんだろ」
 真横にいる美雨にしか聞こえないような小さな声。それなのにその声は驚くほどするりと耳に入ってくる。

―― そうだ ――

 美雨はグッと顔を上げ、答えた。
「はい」
 怖じ気付くような様子を少しでも見せれば、相手の不安を煽ることになる。
 戸惑い、訝しみ、迷う民衆の姿をその目でしっかりと見渡す。その様はまるで彼らの想いを全て受け止めようとしているかのように見えた。
 そうして見渡している中でふと、数人ではあるが戸惑いながらも祈るように頭を下げる人の姿が見えた。美雨のことを信じ切れはしなくとも、藁にも縋る思いなのだろう。
 たった数人。これだけ沢山いる人の中でたったの数人だ。
 けれどそれを目にした美雨は姿勢を正し、ゆっくりと頭を下げた。
 完全に認められたわけでも、全て受け入れて貰えたわけでもないと思う。けれど少しずつでも変わってきているのではないだろうか。そう思えば何とも言えない感情が込み上げ、自然と行動していた。
 どのくらいそのままでいたのか、気付けば辺りは静まり返っていた。
「……顔、上げたら」
 隣に立っていたクートが不意に囁いた。
 下げた時と同じようにゆっくりと顔を上げ、美雨は息を飲む。
 そこには頭を垂れる多くの人々の姿があった。
 もちろん全員ではないが、それでも今までにはなかったその光景に思わず横のクートを見上げ、美雨は目を瞠った。
 彼と目が合ったその一瞬、いつもの不機嫌顔が和らぎ、ほんの少しだが口元に笑みが浮かんだからだ。

―― 笑った…… ――

 あまりの驚きに思わずジッと見つめてしまったが、クートはそれに気付いたのかいないのか、すぐに前を向いてしまった。その顔にはすでに笑みはない。
 美雨も同じように正面に向き直りながら唇をきゅっと引き結んだ。
 ほんの一瞬、幻のような笑みが心の中にむず痒いような気持ちを生む。いつも睨むばかりだった彼が初めて笑いかけてくれたことがこんなにも嬉しい。
 壇の下からもマティアス達の笑みが見える。
「闇が払われる日を信じ、どうかこれからも祈り続けて下さい。皆の祈りが闇を切り裂く光となるまで」
 そう言ってマティアスが胸に手を当て、民衆に向かって礼をとった。残る四神官とカヤもそれに続き、美雨も慌ててもう一度頭を下げながらホッと胸を撫で下ろす。
 懸念していた暴動が起きることもなく、二度目の顔見世はこうして終了した。




 奇妙な昂揚感とざわめきに包まれている広場の中、壁に寄り掛かった一人の男が辺りに耳をそばだてていた。
「新しい巫女様……信じていいものなのかね」
「それにしても恐ろしいほどそっくりなものだな」
「双子というのは本当だったのか。しかも"先に生まれた者"とは」
「もう信じるしかないわよ。このままじゃ闇が深まるばかりだもの」
「でもやっぱり気味が悪いわ。だって"忌み子"よ?」
「せめて"後"であればまだ……」
 まち行く人々の言葉は皆、信じるか信じてよいものか、と迷うものばかりだ。誰一人として心から新しい巫女を信じている者は居ない。
 そしてそれに混じって"禁忌の双子"であることへの嫌悪や不満が聞こえてくる。いや、そちらのほうが多いだろう。
「くだらない」
 男は壁にもたれたまま小さく呟いた。ストールの隙間から覗く榛色の瞳は驚くほど冷め切っている。
 それにしても、と男は思った。
 先程の顔見世を遠目から見ていたが、ルトウェルで見つけた時とは巫女の雰囲気がほんの少し違っていたように感じる。はっきりとは言えないが、人を寄せ付けようとしない雰囲気が和らいだ気がするのだ。
 巫女と四神官の絆を深められるのは都合が悪い。

―― 少し揺さぶりをかけるか ――

 男はストールの上から口元に手を当て、何かないものかと考えていると向かいの店先で話す男女の声が聞こえてきた。
「やっぱり四神官様は変わられないのね」
「あれほど優秀な方々の代わりなどそうそう見つからないさ」
「でもお付きの女性は変わったんでしょう?」
「ああ、何でも噂では……」
 その先は大きな声では憚られたのか、声を落として話し始めた。しかし、そこまで聞けば男は十分だった。お陰ですっかり忘れていた情報を思い出した。
「……使えそうだな」
 そう言ってニヤリと歪めた口元はストールで隠され、誰の目にも留まることはない。
 男は壁から背を離すとそのまま何処かへと歩き去って行った。






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