再び船旅が始まってすぐにやはり体調を崩した美雨の為に副作用の少ない薬草のみで調合した薬を持ち、彼女の部屋を訪れた。扉の前に立ち、何度かノックをしてみるものの、中からの返事はない。どうやら空振りに終わってしまったようだ。
 レイリーは手の中の薬包を眺めた後、ちらりと廊下の先に目をやった。
 このまま部屋に薬を置いて行ってもいいのだが、体調があまり芳しくないようならば違ったものが必要になるかもしれないし、やはり自身の目で彼女の状態を診ておきたい。
 船上で美雨が出歩く場所と言えば限られている。カヤの姿も見えないことからおそらく彼女と一緒に甲板にでも出ているのだろう、とレイリーは足を踏み出した。
 美雨達を探して廊下を進み、突き当たりの角を曲がった所で正面からクートがこちらへ向かって歩いて来るのが見えた。
 少し伸びた前髪が俯いた顔にかかり表情を隠している所為か、雰囲気がいつもと違うように感じられた。それに他者の気配に人一倍敏く反応するクートが今は自分の存在に全く気付いていないのもおかしい。
「クート?」
「……っ…」
 その様子が気になり、足を止めて声を掛けると彼はビクリと肩を揺らし、慌てたように顔を上げた。それからレイリーの姿を認め、疲れたように息を吐く。
「あ……レイリーか…」
「何かありましたか?何だか疲れているようですが」
「……別に」
「別に、というようには見えませんよ?」
「本当に何でもないから」
 訝しんでそう言えば、彼はぽつりと呟いて顔を背けた。
 不機嫌というよりは何かを堪えるように苦々しく眉を寄せるクート。明らかに何でもないはずがないのだが、これ以上問い質したところで彼が答えることはなさそうだ。
「そうですか」
 レイリーはただそれだけ言ってにこりと笑み、それから話を変えた。
「ところで、どこかでミウを見かけませんでしたか?部屋に居ないので探しているのですが」
「……この先の甲板にいたよ」
 美雨の名前が出た途端、背けられたままのクートの横顔が更に険しくなるのが見えたが、問いかけに答えた彼の声音は何処か安堵したようにも聞こえた。
「ああ、やっぱり甲板でしたか。ありがとうございます」
「ん」
 クートはそう頷いてそのままレイリーの横を通り過ぎて行く。

―― まだ気持ちの整理がつかないのだろうな…… ――

 その背中を見送りながらレイリーは悲しげに眉を寄せた。
 美陽が突然姿を消したあの日、誰よりも必死に駆けずり回って探していたのはクートに他ならない。彼のその姿や、少しずつ少しずつ笑わなくなっていった彼女のことはまだ記憶に新しい。
 だが、時間というのは無情なもので、気持ちの整理がつこうがつくまいがそんなことは関係なく、誰の元にも平等に流れていく。そうして時が過ぎ、目の前に現れたのは美陽に瓜二つの美雨。
 クートの中にある葛藤も理解出来るからこそ、今の彼に何かを言うことは出来なかった。
 レイリーは感傷を断ち切るようにふっと息を吐くとクートの去った方に背を向け、美雨がいるという甲板に向かって再び歩き出した。
 目当ての扉を見つけ、ドアノブに手をかけようとしたその時、カチャッと小さな音を立ててそれが開いた。扉の向こうには少しだけ目を丸くした美雨とカヤの姿。突然現れたレイリーの姿に驚いたのだろう。
「すみません、驚かせてしまいましたね」
「いえ」
 風で閉まらないよう、扉を押さえながらすまなそうに笑うレイリーに美雨は小さく首を振る。
「風に当たりに?」
 レイリーはこくりと頷いた美雨の顔をじっと見つめ、それからおもむろに空いている手を彼女の頬に伸ばすと、その指の背をそっと滑らせた。
「……っ…」
 触れた瞬間、美雨の肩がぴくりと揺れた。
 暖かくなってきているとはいえ、夏のような暑さではない。海風にずっと晒されていれば肌は冷たくなる。彼女の頬も例に漏れず少しばかり冷えており、血の気が失せた肌はいつも以上に白かった。
「まだ顔色が良くありませんね」
 レイリーはすっと手を下ろし、カヤの方に顔を向けた。
「部屋に戻る途中でしたか?」
「ええ」
「それなら送っていきましょう。薬も持ってきましたので」
「ありがとうございます。やっぱりレイリー様はお優しいですわ」
 そう言ってにっこりと満面の笑みを浮かべるカヤの言葉の裏に、クートへの棘が見え隠れする。彼女はクートのことを嫌っている節があったから余計にそう感じたのかもしれない。
 苦笑にも似た笑みを浮かべつつ、レイリーは二人を船内へと招き入れ、ゆっくりと歩き出した。
「慣れない船旅は辛いでしょうが、もう少し頑張って下さいね。あと数日もすれば着きますから」
「はい……あっ」
 その時、船がぐらりと大きく揺れ、美雨の体がよろめいた。レイリーが咄嗟に彼女の手を取り、事無きを得る。
「大丈夫ですか?」
「すみません」
 美雨が左手でマントの端をつまみながら顔を上げた。揺れた時に裾を踏んだらしい。すっぽりと体を包み込んでいるマントは、よく見ると彼女の物にしては少し大きめだった。おそらくクートの物だろう、と思う。
「もっと寄り掛かっても平気ですよ」
「あ……いえ、大丈夫です」
 華奢な体ごと支えられるような者がこんなに近くにいるのに、美雨はその細い指先を軽く乗せているだけで一向に体重を預けようとはしない。その指だってレイリーが取らなければ自分から乗せたりなどしないだろう。
 青い顔をしながらも一人で歩こうとする美雨が痛々しく、護りたいという思いと同時に、なぜ頼ってくれないのかという怒りにも似た思いが溢れてくる。
 そう思った一瞬の後、レイリーは形のいい眉を寄せた。
 美雨が頼らないのは頼られるほどの信頼を勝ち得ていないからだ。己の不甲斐無さを棚に上げ、呆れるほど身勝手な感情を抱いた自分に思わずため息が零れる。
「………」
 ふと、視線を感じてそちらを見れば、美雨がこちらをじっと見ていた。
 レイリーはそんな彼女に優しげな、けれど困ったような笑みを浮かべ、自分の手の平に遠慮がちに乗せられたままの彼女の手をそっと握りしめた。




 未だに揺れているような錯覚を覚え、思わずふらついてしまう足に力を入れて真っ直ぐに立つ。八日間の船旅を終えてようやく地に足を付けた美雨は深く息を吸い込んだ。
 暖かな風がふわりと頬を撫で、彼女の黒髪を揺らしていく。この世界の南に位置しているだけあり、体に纏う空気も今までのどの場所よりも暖かであった。
「ようやく着きましたわね」
 その声に振り向けばカヤがすぐそばに立っており、目が合った彼女はにこりと明るい笑みを浮かべた。その手には今まで美雨が羽織っていたマントが握られている。
「大分暖かいですし、こちらは羽織らなくてもよろしいですか?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「いいえ。馬車が出るまで少し時間があるようなので今のうちにお休み下さいませ」
 こくりと頷くと、カヤは使わなくなったマントを仕舞いに荷台の方へと歩いて行く。その後ろ姿を見送る美雨の視界の隅にクートの背中が映った。
 美雨が寝込んでいた所為もあって船の上ではほとんど顔を合わせることがなかったが、さすがに巡礼のしきたりに背くことは出来ないのだろう、決して近くはないが何かがあればすぐに駆けつけられる位置で控えている。
 だが、彼から話しかけてくるようなことはなかったし、美雨から何か話そうとすることもまた然りだった。そうすると必然的に二人の間には沈黙のみが流れていく。
 妙な距離感を保ったまま、出発の準備が整った一行は次の目的地、アルフレア神殿を目指して陸路を進み始めた。
 そうして進み続けた四日目の夜、宿として借りていた礼拝堂の廊下を一人で歩いていると、ちょうど部屋から出てきたクートと鉢合わせた。
「あ……」
「………」
 馬車の中でも宿の中でも会話は必要最低限。そんな二人が出くわせば当たり前のように気まずさが漂う。
 思わず足を止めてしまったものの、こうして二人きりで向かい合うことなど滅多になく、どうしていいのか分からない。
 クートはといえば一度美雨を見ただけで、それきり目を合わせようともしない。まるで美雨のことなど見えていないかのような雰囲気だ。恐らく美雨が足を止めたりしなければ彼はそのまま素通りして行ったことだろう。
 だが、美雨もまたクートに話しかけるような用件は持ち合わせていなかったし、もちろん世間話をするような間柄でもない。
 感じる気まずさに美雨は少しだけ視線を床に落とした。
「………」
 しんと静まり返った廊下にどこかから小さな泣き声が聞こえた。鳥だろうか、と美雨が窓の外を見やった時、クートが二人の間の重たい静寂を破った。
「……このまま」
 ぽつりと聞こえた低い声に美雨が再びクートに視線を戻すと、彼はじっとこちらを見つめていた。
「このまま何事もなければ明日にはアルフレア神殿に着くが、神殿内では今みたいにあまり勝手に動き回るなよ」
「え……」
 不機嫌を少しも隠そうともしない声。形のいい眉を寄せている彼の姿が目に映る。
 アルフレア神殿が近付くにつれ、彼の機嫌はどんどん険悪になっており、纏う空気がピリピリと張り詰めていくのを何となくだが肌で感じていた。今もまた、刺すような視線がこの身に突き刺さる。
「余計なことはするな。あんたは自分の……巫女の役目だけ考えていればいい」
 黄金色の瞳に強い嫌悪を滲ませ、クートはそれだけ言い捨てると踵を返し、その場から歩き去って行った。

―― 余計なこと…… ――

 その後ろ姿を目で追いながら美雨はクートが言った言葉を繰り返す。
 自分のやる事なす事全て、彼の気に障ってしまうようだ。護衛としての役割を持つ彼らにとってはこうしてふらりと自分が出歩いたりすることも余計なことの一つなのかもしれない。神殿に着いたら彼の言う通り、極力大人しくしていた方がいいだろう。
 そんなことを考えていると不意にマティアスの声が脳裏に浮かんだ。

"もう少し待っていてあげてくれるかな。きっと全て解ける日が来るから"

 マティアスや他の皆が知っていて、そして彼らからは教えて貰えない事柄。恐らくは自分が知らずに彼にしてしまった何か。それをクートの口から知れる日が来るとは欠片も思えないまま、次の神殿へと近付いていく。
 美雨はため息をついて窓辺に寄るとガラスに手を置き、深い闇に沈んだ空をぼんやりと眺めた。






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