壁に寄りかかりながら腕を組み、遠く揺れる海面を見つめながらクートは一人小さく息を吐いた。
 頭上には暗雲が立ち込めたような光のない空が広がり、この重たい心をさらに重く押し潰しているような気がしてならない。
「全く……忌々しい空だ」
 見上げた空を睨み、吐き捨てるようにぽつりと呟く。
 ちょうどその時、波の音に混じって甲板の扉が開いた音が聞こえた。ゆっくりと視線を巡らせた先には美雨とカヤが立っており、向こうもクートの姿を認めて一瞬足を止める。
「………」
 クートは彼女達を一瞥しただけでふいっと視線を戻した。
 極力、彼女と顔を合わせることを避けていたのだが、こんなところで鉢合わせるとは思ってなかった。今日も部屋に籠って出て来ないだろうと踏んでいたのに、とクートは内心でぼやいた。
「ミウ様、大丈夫ですか?」
 足元が覚束ない美雨の肩に手を回し、カヤが心配そうに問いかけている。支えられながら歩いて行く美雨をちらりと見やると、彼女の頬は心なしかいつもより蒼褪めて見えた。どうやら気分が悪くなって風に当たりに出てきたらしい。
 相変わらず船に弱い美雨は出港してからのほとんどの時間をベッドの上で過ごしているようだった。
 ようだった、という曖昧な言い回しは人づてに聞いただけであって、現状をこの目で見たわけではないからだ。看病をしているのは主にカヤと薬学に長けているレイリーであり、クート自身は一度も彼女の元を訪れていない。
「うん……ごめんね」
「お気になさらないで下さい。さ、こちらへ」
 壁に寄りかかったまま動こうとしないクートを余所に、カヤは甲斐甲斐しく美雨に手を貸しながら手すりの方まで連れて行く。
 目の前を通る時、カヤの冷ややかな視線が向けられたような気がしたが、それもそのはず、クートは以前、彼女に向かって美雨を貶めるような事を言ったのだ。自身が仕える者を侮辱されて平気でいられるような娘ではなかったのだろう。
「しばらくこうしてるからカヤは戻っていいよ」
「いいえ、おそばに居りますわ」
 彼女達の声がほんのりと暖かな風に乗って聞こえてくる。空は暗くともこれから向かう先は南の大陸、ラーグの中で最も気候が暖かな場所だ。出航してから四日、大陸が近くなるにつれて空気は暖かくなってきていた。
「あとどのくらいで着くのか分かる?」
「あと三日ほどかかるそうですわ」
「そっか」
「でも海の上でも風が暖かくなってきましたね」
「うん」
 クートは目を閉じ、その他愛ない会話を聞く。
 こうして聞いていると美雨の声は美陽のそれと酷似している。否、全く一緒だ。ただ美陽より抑揚がなく、感情を感じさせないだけ。
 だからか、美雨とカヤのやり取りがどうしても美陽と彼女のことを彷彿とさせる。

"あとどのくらいで着くのかな?"
"もうすぐですよ、ミハル様!ほら、空気が暖かくなってますから"

「………」
 美陽と彼女の明るい声を思い出し、クートは閉じていた瞼を開けると小さく舌打ちをした。
 視線の先には手すりに腕を置き、何もない海を眺めている美雨の背中があった。上背はそれほど低くはないが、その後ろ姿は今にも海に呑み込まれてしまいそうなほど華奢に見える。
 しかし、本来ならば守らなければならないはずの背中に、比護欲ではなく怒りに似た感情が湧き上がってくる。この船が大陸に近付くにつれ、心の中に落ちた一点の染みが少しずつ、ゆっくりと大きく広がっていくのが分かるのだ。
 美雨にとってみれば一方的に負の感情を向けられるなど理不尽なことかもしれないが、自分にとってもあの出来事は理不尽極まりなかった。
 胸の奥が軋んだ音を立て、この場に居たくない、と訴えてくる。制御し切れない自身の感情はクートに更なる苛立ちを覚えさせ、彼は壁に預けていた背を起こすとそのまま出入り口へと向かった。
 だが、数歩歩いてからその足を止め、後ろを見やる。再び小さく舌打ちをするとクートは羽織っていたマントを外し、踵を返した。
「おい」
 突然かけられた声に驚いたのか、美雨の肩がびくりと跳ね、それからゆっくりと振り返った。まるで感情の読み取れない彼女の表情にクートは眉を寄せ、それから手に持っていたマントをばさりと投げた。
「いくら心地良くても海風は体に障る。あまり当たり過ぎんな」
「え……」
 受け取ったマントとクートを交互に見やり目を瞬かせる美雨を置き、背を向けて歩き出したクートは今度こそその場を後にした。
 甲板から船内へと続く扉を開け、廊下を歩いて行く。その内心には苛立ちが募っていくばかり。

"今のままであの子の心まで護れると本当に思っているのかい?"

 出航前にマティアスから言われた言葉が脳裏に蘇る。無雑作に揺れる赤い髪から覗く眉を寄せ、クートは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
 甲板に取り残された美雨がどんな顔をしていたかは知らなくていい。知る必要もない。心を護るのは他の三人で十分だ。
「……優しくなんてする必要ないだろ…」
 絞り出すような声で苦々しく呟きながら、クートは足音も荒く廊下を進んで行った。




 放り投げられた物を咄嗟に受け取り、目を瞬かせている間にクートは美雨の前から立ち去って行った。どうしていいのか分からずに手の中にあるマントを呆然と眺め、それから彼が消えていった扉を見やる。
「信じられませんわ!」
 唐突に隣から憤慨した声が聞こえ、驚いてそちらに視線を移せばカヤが眉根を寄せて不満げな表情をしていた。
「女性に向かって物を投げつけるだなんて」
 カヤはそう言って憮然としているが、美雨としてはクートが自分のことを気に掛けたというだけで驚きだった。今までは美雨が何をしていようが関係ないといった素振りだったのにどういう風の吹き回しだろう。
「あれでミウ様のお身体を心配しているつもりなのかしら。あまりに乱暴過ぎますわ」
「気にしてないよ」
 美雨としては本心からそう言ったつもりだったのだが、どうやらカヤは納得していないようだ。美雨の手からクートのマントを受け取り、丁寧に肩から羽織らせながら文句を続けている。
「いけませんわ。ミウ様は大切に扱われて然るべきお方なのですよ?お優しいのはもちろん良いことですが、時には怒ることもなさらなければ」
「………」
 怒る、という言葉にぴくりと指先が動いた。黙ったまま視線だけをそっと伏せる。美雨の胸元でマントを留め終えたカヤは自らの口元に手を添えて考えるような仕草をとった。
「やっぱり一度、兄様に相談するべきかしら」
 カヤがぽつりと零した独り言に、美雨は慌てて口を開く。
「大丈夫、クートのことは船に乗る前にマティアスと話してあるから」
「ですが……」
「本当に気にしてないの」
「……ミウ様がそう仰るなら」
 念を押すように繰り返して伝えると、カヤは渋々とだがようやく引き下がってくれた。
 それを見てホッとした美雨は再び海へと視線を向けた。目の前には灰色にくすんだ海原が一面に広がり、船が通った後の波が道のようになって揺れている。
 ふわりと風が吹いた瞬間、マントから微かに自分のものとは違う香りがした。おそらく彼の香りだろう。慣れない香りにそばに居るのがクートになったことを改めて実感させられる。
 ディオンは壊れ物を扱うように大切にしてくれた。
 マティアスはその名を捨ててまで護ってくれようとした。
 でもクートは違う。
 それが嫌なわけではないし、ディオンやマティアスのように扱って欲しいわけでもない。むしろこれまで人との関わりが希薄だった美雨にとってはクートとの距離の方が落ち着くのだ。

―― とは言ってもあの視線には慣れないけど…… ――

 美雨は色のない海に目を向けたまま、マントの端をきゅっと掴んだ。先程のカヤの言葉が美雨の耳にこだましている。
 怒り。
 それは美雨ではなく、クートにこそ当てはまる言葉だ。恐らく彼は自分に対して怒りを抱いている。冷たい態度も、あの射るような眼差しもその表れだろう。
 初めのうちは自分でも気付かぬうちに何かしら彼を怒らせるようなことをしてしまったのか、と思っていたが、出会った時からあの態度だったという事を考慮すれば、おそらくは美陽を呼び戻したことが原因なのだろう。他の四神官のように納得出来なかったのかもしれない。
 それならば彼には怒りを向ける正当な理由がある。それに対して美雨が彼に怒りを向ける権利などない。

―― それに…… ――

 ふと、乗船前にマティアスから言われた言葉を思い返す。
 彼の含みのある言い方から察するにそれ以外にも何か理由がありそうだ。おそらく、としか言いようがないが、その何かがクートの怒りに触れた一番の原因なのだと思う。
「………」
 美雨は海を見つめながら小さくため息を吐いた。
 こんな風にここで考えていても全ては自分の憶測でしかない。マティアスの言う通り、いつか全てが分かる日が来るのを大人しく待つ以外ないのだろう。果たしてそれが来るのかは分からないが。
「ミウ様?」
 隣から聞こえたカヤの声にハッとして、美雨はそちらを振り向いた。
「あ、ごめんなさい、ぼーっとしてて」
「大丈夫ですか?」
「うん」
「ミウ様、そろそろお部屋に戻られませんか?癪には障りますが、先程のクート様のお言葉は確かですしね」
 クートの態度が余程癇に障ったのか、若干の悔しさを滲ませながらカヤが言った。その様子に思わず内心で苦笑する。
「そうね。でも、あと少しだけ……いいかな」
 窺うように美雨がそう言うとカヤはそれまでの表情をコロリと変え、すぐに笑みを浮かべた。
「ええ、もちろんですわ」
「ありがとう」
 手すりに腕を乗せてもたれ掛かりながら、境界の曖昧な空と海を眺める。
 体調が悪いことも相俟って考えることすら億劫になってきてしまい、美雨は全てのことを頭から追い払うと、ただただ遠くに見える水平線を見つめ続けた。
 南の大陸に近付いてきたことを知らせるような暖かな風が美雨の頬を撫で、真っ直ぐに下ろした黒髪をサラリと揺らしていった。






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