顔見世を終え、そのままルトウェルを出発した一行は途中の街で宿を取り、六日後の夕暮れにようやく港へ辿り着いた。馬車を下りた先で目にしたのは初めて見る港だった。
「ここに来る時の港とは違うんですね」
「次の南の大陸に行くにはここからの方が都合がいいからね」
 そう答えながら自分の隣に並ぶマティアスを見上げると、彼はにこりと柔らかく笑んだ。
「これでやっと半分だね。先はまだ長いけど、大丈夫かい?」
 彼の言葉に美雨は静かに頷いた。長かったような、あっという間だったようなこの数ヶ月が蘇る。
 あと二つの大陸、二つの神殿を巡り、ゼノフィーダ神殿に帰って初めて巫女としての役目を果すことが出来るのだ。それまではまだ地道に旅を続けなくてはならない。
 そんなことを考えていると、不意にマティアスの手がすっと美雨の首元に伸びた。
「もうほとんど消えてしまったね」
 そこにある何かを確かめるように指先で触れ、残念そうな声音でそう呟く。何のことだろう、と美雨が首を傾げると、マティアスはくすっと妖艶な笑みを浮かべて首筋に顔を寄せた。
「……っ…」
 突然のことに動けずにいた彼女の肌に軽く口付け、そのまま触れるか触れないかのところでそっと囁く。
「ほら、この前こうして付けたでしょ」
 彼の行動と言葉でその場所にあったものに気付き、美雨は頬を赤らめて顔を俯けた。そうして露わになった彼女の細い首筋には薄らと残る赤い花びらのような痕があった。
 それは顔見世の時に馬上で首筋に口付けられた時の痕跡。あの後、鏡に映った自分の首筋に今よりもはっきりと赤い痕が残っていることに気付き、一人恥ずかしさに顔を覆ったことを思い出す。
「また付けてあげようか」
「…っ……いいです」
 いつの間にか後ろから抱き寄せるような形になっていたマティアスの腕から逃れようと美雨は必死に身を捩る。すると気抜けするほどあっさりと腕が解かれた。
「冗談だよ」
 両手を顔の横に上げながら愉快そうにクスクスと笑うマティアスにホッと息を吐いた美雨だったが、次に聞こえてきた言葉に彼女の体は再び硬直した。
「次につける時はミウが私を選んでくれた時だ」
 先程までとは違う、真面目な声。その声音には抱き締められるよりも強い拘束力があるような気がした。
「君が望むならずっとそばにいてあげるよ」
「………」
 それはいつか言ってくれたのと寸分違わぬ言葉だった。
 答えられず視線を伏せた美雨の頬にマティアスの柔らかな口付けが落ちてくる。
「ゆっくり考えるといい。私は気が長いから」
 気を遣わせないようになのか、冗談めかして言ったその言葉に辛うじて小さく頷くと、彼は大きな手で美雨の頭を撫でた。
「マティアス」
 その声にハッと我に返った美雨がマティアスから離れて振り返ると、少し離れたところにいるクートが睨み付けるような視線でこちらを見ていた。
「荷が積み終わった。三十分後には出航だって」
「ああ、分かった。ありがとう」
 マティアスはつい先程までのことなどなかったかのように、いつもと変わらぬ笑みで平然と受け応えている。だが、美雨はそうもいかず、クートから視線を外して横を向く。
 突き刺さるような視線に居た堪れなさを感じていると、ふと視界の端でクートが踵を返して去って行くのが見えた。
 いつも以上にピリピリしているようなクートの様子に美雨は思わずマティアスを見上げた。その様子に彼が小さく苦笑する。やはり彼もクートの様子の違いに気付いているようだ。
「気にすることはないよ」
「でも」
 これから南の大陸に向けて出港するということは、そばに控える神官がマティアスからクートに変わる、ということだ。しばらくの間、クートと共に行動することが増えるというのに気にしない訳にはいかない。
「冷たく見えるかもしれないけど……あの子にも事情があってね。心の底では君を嫌っているわけじゃない」
「事情……?」
 出会った当初から冷たい態度をとられ続けていた美雨にはどうやっても嫌われているとしか思えない。むしろ、それ以上の負の感情があるように思えて仕方がなかった。そうでなければあの刺すような、仇敵を見るような目の説明がつかないのだ。
「そう、だけどそれは私が言うべきことじゃないからね。ミウにも色々と思うところはあるだろうけど、もう少し待っていてあげてくれるかな。きっと全て解ける日が来るから」
「………」
 腑に落ちないものを感じつつも美雨が頷くと、マティアスは柔らかく目を細め、彼女の頬を軽く撫でた。彼の温かな手を感じながら美雨はいま言われた言葉を反復する。
 いつか解ける日が来る、とマティアスは言ったが、美雨には到底そうは思えなかった。
 美雨は先に船へと歩いて行くクートの背中をちらりと見やった。どんどん離れていく二人の間にはこの距離よりももっと大きくて深い溝があるような気がする。

―— 違う…… ―—

 元より自分と誰かが繋がったことなど一度としてない。美雨にとっては他人との溝など最初からあって当たり前でそれが埋まることなどなかった。進んでそばに来ようとする人もおらず、そして美雨自身、誰もそばに寄らせようとしなかった。
 美雨は心の中で自嘲し、クートの背中からそっと視線を外した。




 出航を目前にした船から少し離れた場所に立って海を眺めていると、後ろからこちらに近付く足音が聞こえてきた。振り向くとそれに気付いたマティアスが軽く手を上げる。
「引き継ぎか?」
 そばまで来て足を止めたマティアスに無愛想な声で尋ねた。
「ああ。でもその前にちょっと話をしようかと思ってね」
「話?」
 次の目的地はクートの出身国がある南の大陸だ。船に乗り込む前に美雨の側仕えを交代することになっており、てっきりその引継ぎだと思っていたクートは怪訝そうに眉を顰めた。
「クート」
「何」
「君はまだミハルを……ミウを、許せない?」
「……っ…」
 思いもよらないその問いかけに一瞬、クートの肩が強張った。その表情も虚を衝かれたようなものから次第に険しいものになっていく。
「あの子は頑張っていると思わないかい?もうそろそろ歩み寄ってもいいと思うのだけど」
「……自分の役目はちゃんと果たしてる。別に構わないだろ」
「そうかな?」
「何が言いたいんだよ」
 四神官は "光の巫女" の守護者。その役目は巫女を護ること。仕方なしにとはいえ、自身の役目はきちんと果たしているつもりだ。
 ムッとして聞き返すと、マティアスはいつも通りの笑みを浮かべながら答えた。しかしその瞳は笑っておらず、鋭さを含んだ眼差しに思わずぎくりとする。
「守護者の務めは巫女が健やかにあるように心身共・・・に護り、導くこと……言っている意味、分かるよね」
「………」
 マティアスが言わんとしていることを察し、クートはぐっと黙り込む。
「今のままであの子の心まで護れると本当に思っているのかい?」
「それは……」
「君の気持ちも分かるけどね。でも、アヴァード様がどうして君を四神官として留めさせたのか、もう一度よく考えてごらん」
 マティアスはそう言ってクートの肩に軽く手を置き、それから踵を返して歩いて行った。彼の背を目で追えばその先にはカヤと並んで立つ美雨の姿があった。
 今度こそ引継ぎをするのだろう、マティアスが美雨とカヤに何事か話しており、彼女たちを連れてこちらへまた戻って来るのが見えた。
 それを眺めていたクートはふっと視線を落とした。
 四神官を辞退しようとしたクートを引き留めたのはアヴァードに他ならない。数多の知識と見識を備える賢者。彼ならば、否、彼でなくとも巫女への忠義を失った神官の行く末など容易に想像出来るはずだ。
 それなのに何故、アヴァードは自分を引き留めたのか。マティアスに言われずともこれまでずっと考えてきたが、いくら頭を捻ってみても分からなかった。
 ただ、今の自分に出来るのはアヴァードの言葉に従い、四神官を続けることだけ。例えそれが己の意志と反していたとしても、だ。
「待たせたね」
 そんなことを考えているうちにマティアスが美雨とカヤを引き連れてやってきた。
「ミウ、ここから先はクートが君の側にいるからね。何かあったら彼を頼りなさい」
「はい」
 マティアスは優しい声でそう告げながら美雨の髪を撫でている。その様子をクートは呆れたような顔で見つめていた。
「クート、頼んだよ」
「ああ」
 そっけなく頷いてから美雨をちらりと見やると、ちょうどこちらを向いた彼女と視線がぶつかった。真っ直ぐに注がれる眼差しに、クートは思わず目を逸らす。

―— ミハルと……同じ色… ―—

 こちらの世界では珍しい黒の瞳。
 同じ色だが、感情の読めない美雨にじっと見つめられると吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える。無邪気に笑うことが多かった美陽ではこんな風に感じたことはなかった。
「あの、よろしくお願いします」
 律儀に頭を下げる姿が視界の端に映ったが、クートは更にそっぽを向いてただ小さく答えただけだった。
「……ああ」
 不機嫌を隠そうともしない自分に美雨は怯えているだろうか、と思ったが普段の彼女を思い浮かべ、己の考えを否定した。いつも皆から一線を引くように過ごしている彼女ならば自分にどう思われていようが気にも留めていないだろう。
「さあ、そろそろ出航だ。乗船しよう」
 二人の間に流れる殺伐とした空気を断ち切るようにマティアスの手がクートと美雨の背を押した。
「……行くぞ」
「あ、はい」
 そう言うなり歩き出したクートの後ろを美雨が慌ててついて行く。
 そんな二人の後ろ姿を追いかけていたマティアスの目がすっと細められた。そこには甘さの欠片もなく、憂いを帯びたような色があった。まるでこれから先のことを懸念するような、そんな眼差しだ。
 美雨を連れて船へと続くタラップを上がっていくクートがマティアスのそれに気付くことはなかった。






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