美雨とマティアスが乗る馬の前後にはディオンとクートが守るようにして並び、その後ろから御者席に座ったレイリーが馬車を操ってついて来ている。護衛の問題上、表に出ることが出来ないカヤは馬車の中から見守っていることだろう。
あれから準備を整えた美雨は迎えに来た四神官と共に神官長トゥーレに挨拶をし、ラターニア神殿を出発した。ここの神官達は最初から美雨に対して丁寧であったが、何処か希薄な雰囲気は最後まで拭えなかった。
手綱を持つマティアスの前に座り、抱きかかえられるようにして座っていた美雨はその手に持った錫杖を見つめ、ぎゅっとそれを握り締めた。
街に行くと決めたのは自分だ。だが、北の大陸でのあの騒動を思い出すとどうしても怖気付いてしまう。
―― でも……頑張らなきゃ… ――
美雨は自分自身に言い聞かせるように心の中で呟いた。王族という地位を捨ててまで自分を守ってくれたマティアスに対して償える唯一のことはただそれだけだ、と思う。
「ミウ」
名前を呼ばれて振り向くと、柔らかな笑みを湛えたマティアスと目が合った。
「怖いなら止めてもいいんだよ」
無表情と言ってもいいほど感情が顔に出ないのに、どうして彼には分かってしまうのだろう。情けない心を読まれ、しかしそれ以上悟られないよう、美雨は首をゆっくりと横に振った。
「大丈夫です」
一瞬の間を空け、クスクスと小さな笑い声が聞こえてくる。
「君は意外と頑固だよね」
「………」
頑固とは初めて言われたが、確かにそうかもしれない。こうと決めた事は梃子でも動かない節があるのは自分でも自覚している。
黙り込んでいると不意にマティアスが馬の速度を落とした。
「それならしっかりとその目で見ておいで」
その声に顔を上げる。
朝だというのに街灯が灯され、薄暗い街並みを照らしている。整然と並んだ建物や碁盤の目に伸びる真っ直ぐな道。それだけを見ればとても美しい街並みだ。だが、そこを行くほとんどの人は疲弊した顔をしていた。
不意に一人の青年と目が合った。その昏い視線に思わずびくりと身を引くと、マティアスの胸元に肩が軽くぶつかった。
「あ……ごめんなさ…」
美雨の謝罪を聞き終えるより早く、マティアスは片方の手を手綱から離すとその手で彼女の肩を優しく抱いた。
「ミウ、背を伸ばして」
その言葉にハッとして美雨は小さく息を吸い込むと、すっと姿勢を正し、真っ直ぐに前を見つめた。希望となるはずの "光の巫女" が背を丸め、俯いていればそれだけで人々の不安を煽る。巫女は常に堂々としているべきだ。
見れば先ほどの青年はすでに興味を無くしたのか、目の前を通り過ぎる彼女達とすれ違うようにして反対方向へ歩いて行った。
興味がないのは彼だけではなかった。美雨や四神官の衣装、それに神殿の紋章が入った馬車で彼らが "光の巫女" の一行であることは明らかなのに、この街の人々は遠巻きにそれを眺めてはざわつくだけで、特別騒ぎ立てることはなかった。
「なんだ、北の時より随分大人しいじゃないか」
後ろについていたクートが少々拍子抜けした声を出した。しかし、護衛の役を任されているだけあって彼は周囲に視線を巡らせることを忘れない。
「騒ぎが起きないに越したことはないよ」
「それはそうだけど」
そう言ってクートは笑顔を浮かべるマティアスに肩を竦めてみせた。
「………」
彼らのやり取りを背中で聞きながら、美雨は黙ったまま左右に目を凝らす。
クートが言った通り、北の大陸の時とは違っていた。単に騒ぎが起きないというだけではない。様々なことが違っているのだ。
神殿でもそうだったように、この街の住民も美雨の姿を認めても怯えることはない。ただ胡乱な視線を投げつけ、興味が無くなったように逸らしていく。
そうかと思えば路地を一歩奥へと目を向けた所にはギラギラとした瞳で睨み付けてくる人達もいた。美雨を、ではなく、この場にいる神殿の紋章を背負う者達を、だが。しかし、ディオンやクートの張り詰めた気が分かるのか、幸いにも彼らが暴挙に出る気配はなかった。
もう一度辺りを見回した美雨の目に遠くに聳え立つ王宮が映った。王の言葉が脳裏に蘇り、美雨はそこに目を留めたまま誰にともなく呟いた。
「巫女の……責任…」
王都という立派な肩書のある街なのにこの場にいる人々は皆、覇気もなく、そして王が言う通り荒廃しきっていた。これが美陽を呼び戻してしまったことの代償なのか。
ぽつりと声を漏らすと、不意にマティアスの腕が美雨の腰を優しく抱き寄せた。背中に彼の温もりを感じ、後ろから耳に響く声が聞こえてくる。
「王の戯言なんて気に留めなくていい。全てを一人で背負う必要はないよ」
「………」
「ミウが大丈夫だと言うのなら私はそれを信じる」
だけど、と彼は言葉を続けた。
「辛いときは辛いと言って。嫌なことは嫌だと言って」
"本当に嫌なことは嫌だと言って"
あの鐘塔で言われた言葉が蘇ってくる。あの時感じた感情も一緒に。
「それが分からなければ君を守ることも出来ない」
マティアスの手が結い上げられ露わになっていた美雨の首筋をそっと辿る。びくりと体を震わせた瞬間、温かなものが押し当てられた。驚きとくすぐったさに首を竦める。
「……んっ…」
ピリッとした痛みが走り、思わず美雨の唇から声が零れた。首筋に口付けられたのだと気付いた時には彼の唇は小さな音を立てて離れていた。
「私に君を守らせて」
それを見ずとも微笑んでいるのが分かるほど優しい声音が耳元で聞こえた。囁くような声と共に吐息が肌に触れ、背筋にぞくりとしたものが駆け上がる。
美雨は抱き締められるように回されたマティアスの腕に無意識のうちにぎゅっと縋り、焦燥に似たその感覚をやり過ごした。
ディオンは変わらずに前を向いているし、後ろにいるクートからはマティアス自身が陰になって何が起きていたのか分からなかっただろう。とはいえ、ここにいるのは彼らだけではない。すれ違う民達には見えていたはずだ。
人の目があるところでこんなことをするつもりは更々なかったのだが、どうにも体が勝手に動いていた。
そのことに自分自身で若干驚きながらも、マティアスは美雨を抱く腕をほんの少し緩め、何事もなかったかのように問うた。
「まだ見ていく?」
「あ……いえ、あの…」
その問いかけに美雨はハッとしたように目を瞬かせ、それから彼女にしては珍しく歯切れの悪い返事をする。その様子を見ていた彼は満足そうに小さな笑みを浮かべた。
自分の感情を抑え込み、笑顔で周囲を欺く術を覚えたからこそなのか、マティアスは人の心の機微にとても敏かった。表情はさほど変わらないが、美雨が狼狽えているであろうことはよく分かる。
いつもこうして彼女を困らせるのは何も嫌がらせなどではない。ただ、普段と違う表情が見たいからだ。
笑顔じゃなくてもいい。何でもいいからその仮面のような無表情を消してやりたかった。感情がないなどと思って欲しくない。困惑だろうと何だろうと感じているものがちゃんとあるのだ、と彼女自身に教えてあげたかった。
マティアスは以前、美雨は自分が傷付くことを厭わない人間だ、と思ったことがある。
だが、それは間違いだった。
彼女の場合、傷付くことを厭わないのではない。傷付いていることに気付いていない。無意識のうちに感情を殺し、隠し、何も感じていないと自分に言い聞かせている。
そうなるに至った事情は分からないが、おそらくそれは今まで彼女が生きてきた中で出来上がった身を守る為の術なのだろう。マティアス自身がそうであったように。
だからこそ心配なのだ。
マティアスはそれと自覚して感情を抑え込んでいたが、美雨は違う。自分の感情を無意識で抑え込んでいる。吐露されることもないそれはじわじわと内側から蝕み、いずれ美雨の心を壊してしまうかもしれない。
「ミウ」
呼びかけると彼女が少しだけ振り向いた。
「そろそろ行こうか」
神殿を出発してから主要の大きな道沿いにゆっくりと馬を進めてきたが、巫女の顔見せにはこれで十分だろう。美雨が見たいと言った街の様子もある程度は知れたはずだ。
美雨が頷くのを見てからマティアスは前後にいる二人にも同じように声をかけた。
王都の中心部から少し外れた場所までそのまま進み、そこで街から街へ移動する時の陣形に戻そうと馬を止めた。先に自分が馬から降り、その後でまだ慣れない美雨を抱き留めるようにして馬上から降ろしてやる。
「ありがとうございました」
そう言って美雨は律儀にも四人の神官に向かって深々と頭を下げる。顔を上げた彼女は少しだけ気が晴れたような、そんな表情をしているように見えた。
マティアスは彼女の側に行くと柔らかな黒髪を撫で、真っ直ぐにこちらを見上げてくる瞳を見つめ返した。
「君が満足したのならそれでいいよ」
そうして彼女の髪を梳きながらふと、深窓の姫君のようだ、と冗談で言ったことを思い出した。
高く高く積み上げられ、誰も入れないように作り上げた堅強な塔。何を思い、姫は自らその中に閉じ籠ったのだろう。
―― 窓はまだ閉じられたまま、か…… ――
今はまだ数少ない表情しか見ていない。けれど、いつかその顔に満面の笑みを浮かべて欲しい。
そして願わくばその時そばに居るのが自分であるように、とマティアスは想いを籠めて彼女の髪にそっと口付けた。
歩みを続けていた青年の足が不意にぴたりと止まる。そして彼は後ろを振り返ると先ほど目の前を通り過ぎて行った巫女達が向かった方を見やった。すでに彼女らの姿はなかったが、青年はまだそこにあるかのようにじっと見つめる。
真っ白な装束に身を包み、手には白銀の錫杖。彼女が巫女であることは一目瞭然だ。
その身に纏う白とは正反対の濡れたような黒の髪だけは前巫女と違うが、その他は顔立ちも体形も瞳の色すらも同じであった。新たな巫女が "禁忌の双子" だという噂はどうやら本当のようだ。
「……やっと見つけた」
ぽつりと独り言ちた声は風の音にかき消され、誰の耳にも届かない。
再び歩き出した青年は榛色の瞳を隠すようにマントのフードを目深に被り、人気のない路地裏へと消えていく。形の良いその口元には昏く歪んだ笑みが浮かんでいた。