窓の外に広がる風景に美雨は目を奪われた。
 一筋の光すら射していない暗く沈んだ空。雲で覆われているというよりも、まるで空全体が闇に覆われていると言ったほうが正しい表現かもしれない。
 美雨はこんな空を見たことはなかった。ありえない空だった。
「……なに……これ…」
 ぽつりと小さく言葉が零れる。美雨はその景色から目を逸らすことが出来ず、ただ立ち尽くしていた。
「この世界では数百年に一度、"闇の時代" が訪れる。空は闇で覆われ、陽の光が届かない大地は枯れ、人々の心は恐慌していく」
 アヴァードは窓の外に瞳を向けて唖然としている美雨の隣で静かに口を開いた。そして一呼吸置いた後、彼はゆっくりと言葉を継いだ。
「世界が闇に覆われし時、光の巫女は現れん」
「………」
 昔語りに出てくるような言葉にようやく美雨が振り向くと、アヴァードは真剣な眼差しで彼女を見つめていた。
「ラーグに伝わる古い伝承じゃ。闇の時代が訪れると決まって異世界から女子おなごが現れたという。そしてその女子が巫女となって闇を祓った、と」
「それが……光の巫女」
「左様。そして此度、我らの元に現れたのはそなたの妹、ミハルであった」
 信じられない、といった面持ちで美雨は呟いた。
「嘘……」
真実まことじゃ。ミハルは伝承の通り、闇の時代が訪れたこの世界に現れた。そして巫女となることを承諾したのじゃ」
 アヴァードの言葉や真っ直ぐな瞳に偽りはない。けれど美雨にはどうしても信じられなかった。

―― だって……美陽は…… ――

 一年前に事故に遭い、それ以来ずっと病院のベッドの上にいたのだ。その彼女がどうやってここに、この世界に来ていたというのだろうか。
 言葉を失う美雨にアヴァードはゆっくりと続けた。諭すような穏やかな声がするすると耳の中に入ってくる。
「じゃがひと月ほど前、ミハルは突然姿を消した。いくら探しても手掛かりすら見つからなかった」
「………」
「そしてワシらの前に再び現れたのがそなたじゃ」
 アヴァードははっきりとした口調でそう言った。それを受けてそれまで圧倒されたように黙っていた美雨が恐る恐る口を開く。
「……じゃあ美陽は……あの子はどうなったんですか?」
「もしかするとミハルは向こうの世界に戻ったのかもしれん。もっともそのようなことが記されている書物はないから定かではないが……」
「向こうに戻った?」
「おそらく、としか言いようがないがの」
 アヴァードが頷くのを見て、美雨の頭の中にあることが思い浮かんだ。
「あの……美陽がここに来たのはいつですか?」
 唐突に問い質したその勢いにアヴァードは少し驚いたような表情をしていたが、すぐに彼女の質問に答えた。
「半年ほど前じゃ。それがどうかしたかの」
「……半年…」
 ぽつりと呟くと美雨は顎に手を当ててうつむいた。
 もしかするとあの事故の後、美陽の意識だけがこちらに来ていたのかもしれない。半年前と言った彼の証言からすると時間が合わないけれどここは異世界、時間の軸がずれていたって不思議でもなんでもない。

―― この憶測が合っていたら…… ――

 現実の世界の美陽は今頃意識を取り戻しているかもしれない。そんなことを頭の中で考えていた美雨にアヴァードの声が聞こえた。
「話を続けてもよいかの」
「あ……はい」
 美雨がパッと顔を上げると、アヴァードはじっと彼女を見つめ、静かに口を開いた。
「ミハルがいなくなってしまったこの世界に再び巫女は現れた。ミウ、どうか "光の巫女" を務めてもらえぬか」
「………」
 驚き、混乱しながらも目の前に起こっていることをしっかりと受け止めて聞いていた美雨には、そういう話の流れになるであろうことに薄々勘付いていた。そしてその後に続く言葉が何なのかも。
「ミハルの代わりに」

"美陽の代わり"

 予想と違わぬその言葉。
 異世界に来てまで聞くことになるなんて、と美雨は自嘲するような笑みを口元に湛えた。そしてアヴァードから瞳を逸らすことなく、ゆっくりと、しかしはっきりと告げた。
「お断りします」
 彼女の言葉に今まで黙っていた後ろの面々が顔を見合わせた。それを視界の隅で捕えながらも、美雨はアヴァードを見据えて付け加える。
「私には彼女の代わりは出来ません」
「何故じゃ?」
 硬い意思のある声で答える美雨に、アヴァードはほんの少しの違和感を覚えながらもそう尋ねた。
「それは……」
 美雨は無意識のうちに右手で左手を隠すように握りしめた。
「それよりも美陽が元の世界に戻ったっていうことは帰る方法があるということですよね?どうすればいいのか教えて下さい」
 手を握ったまま、アヴァードの問いには答えずに口早に問うた。一刻も早く元の世界に戻りたかった。だが、彼が答えたのは彼女をひどく落胆させるものであった。
「さっきも言った通り、ミハルが戻ったというのも憶測じゃ。それにワシらは巫女がどうやってこの世界に来るのかも知らぬ。帰す方法など解るはずもないのじゃ」
「そんな……じゃあ美陽はどうやって…」
 そう言ってから美雨はハッとしたように口をつぐんだ。
 美陽が意識だけの状態でこっちに来ていたのだとすれば、現実世界の実体が目覚めようとしてここにいた彼女は引き戻されたのかもしれない。

―― それなら私は…… ――

 美雨は意識を手放す前の暗闇に呑み込まれるような感覚を思い出した。
 あの時感じた妙な浮遊感。あれはあの世界にあった実体ごとこの世界に来てしまったということなんだろうか。そうなれば美陽のように戻れる可能性はない。
 考え込むように俯いてしまった美雨に優しげな瞳を向けると、アヴァードは彼女の肩に手を置いた。
「一度に聞かせて混乱もするじゃろう。巫女になるかどうかは置いておくとして、ひとまず休むといい」
「……はい…」
 消え入りそうな美雨の返事を聞いたアヴァードは後ろの面々に何事かを指示し、部屋を後にした。




 アヴァード達が出ていった部屋に残ったのは美雨と、そして最初に出逢った銀髪の男だった。
「ミウ様、部屋にご案内します」
 静まり返った空気を破ったのは男だった。巫女にはならないと言った美雨の気持ちを汲んでか、彼は "巫女" ではなく名前で呼んだ。
「………」
 返事をせずにゆっくりと視線だけを彼に向けると、銀髪に縁どられた端正な顔が心配そうに見つめ返してきた。
「ミウ様?」
「……はい」
 アヴァードが話を切り上げてしまった以上、ここに残っていても仕方がない。それにひどく混乱しているのは確かだった。美雨が小さく頷くと男はどこかホッとしたように息を吐いた。
「では、こちらへ。私の後について来て下さい」
 彼が開けた扉をくぐり、美雨は目の前を歩くその背中を追って足を動かした。建物の中は広く複雑で、一度歩いただけでは覚えられそうにない。
 美雨に合わせてくれたのか、ゆっくりとした歩調で進む彼の後について階段をいくつか上がっていく。ようやく辿り着いた部屋は先ほどの部屋よりもかなり広く、立派なものだった。
「ミハルが使っていた部屋です。分からないことや何か困ったことがあればすぐに呼んで下さい。食事はあとでこちらにお持ちします」
「……ありがとうございます」
 そう言って軽く頭を下げた美雨を見て、男は柔らかく口の端を上げた。
「突然のことで混乱しているとは思いますが、少しでもお休み下さい。ね?」
「……はい」
 頭上に落ちてくる優しい声に美雨は感情を籠めずに頷いた。本当に心配してくれているのだろうが素直にそれだけであるとは思えなかった。
 自分が "巫女となり得る者" であるから。だからこうして気を遣っているのだろう、と思う。
「では私はこれで」
 彼が出て行った扉が閉まるのを見届けると、美雨は振り向いて部屋の中をぐるりと見回した。美陽が使っていたというだけあって、ベッドやテーブル、椅子に箪笥と生活に不便がない程度のものがきちんと揃えられている。
 美雨はそれらからふっと視線を外すと真っ直ぐに窓に向かって歩いていった。窓ガラスに手を当てればひんやりと冷たく、それが未だに夢ではないかと思いたくなる美雨の考えを否定した。
 窓の外に広がるのは闇に呑み込まれたような暗い空。
 美雨はきゅっと目を瞑ると頭に浮かび上がる様々な考えを追い出した。このまま考えていたところで、ぐちゃぐちゃに絡まってまとまらないのは明白だ。
「……疲れた」
 掠れた声で呟くと美雨は窓辺を離れ、ベッドへと足を向けた。
 天蓋のかかったベッドは一人で寝るには広すぎるように思えたが、薄絹の切れ目を捲ると美雨は躊躇うことなくそこに身を投げ出した。彼女の体を受け止めたベッドがギシッと鈍い音を立てる。
 寝転んだ頭の上に腕を乗せて美雨はゆっくりと瞳を閉じた。
 異世界。闇の時代。光の巫女。そして美陽。
 アヴァードから聞いた様々なキーワードが追い出したはずの頭の中を駆け巡る。美雨は深くため息を吐いた。
「……なんでこんな…」
 どうしてこんなことになってしまったのか全く分からない。
 誰にも寄ることなく、ただ平凡な毎日をひたすらに独りで生きてきたはずなのに。それなのにどうして世界を救う "光の巫女" とやらに担ぎ上げられてようとしているのだろう。
 いっそ夢なんだと思いたいが、五感の全てがこれは現実だ、と言っている。
 誰に、そして何を言えばいいのか分からないやり場のない気持ちを胸に抱えたまま、美雨はいつの間にか眠りの世界へと落ちていった。






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