翌朝、身支度を整えているところにノックの音が響いた。朝とはいえまだ随分と早い時間だ。何事かあったのだろうか、とマティアスは同室のレイリーと顔を見合わせ、それから部屋の扉を開けた。
「朝早くにすみません」
 そこにいたのは少しだけ肩を縮こませた美雨だった。思い掛けない来客に少々面を喰らいつつも、マティアスは至って平静に受け応える。
「どうしたの?」
 用もなく彼女が訪ねて来るはずもない。マティアスが先を促すと、彼女は言いにくそうに言葉を詰まらせながらも口を開いた。
「あの……今日の出発、少し遅らせることは出来ませんか?」
「それは構わないけど……何かあったのかい?」
 体調でも悪いのかと思ったが、彼女の顔色を見る限りではそういうわけでもなさそうだ。マティアスが尋ねると美雨は一度視線を俯け、それから意を決したように顔を上げた。
「もう一度、この街を見たいんです」
「街を?」
 それは予想もしない答えだった。
 北の大陸での一件があった所為か、彼女が顔見世を敬遠しているのはなんとなく察していた。だから治安が悪化しているこの街での外出は控えていたのだ。
 なのに、美雨は自らそれを申し出た。
「はい。一晩考えたんですけど、やっぱりこの目でちゃんと見ておきたくて」
 その言葉にマティアスは昨日の謁見のことを思い出した。
 傲慢な王が投げつけた言葉が美雨の中で責となって積もってしまったのだろうか。
 "いい子" でいなくてもいい、とマティアスは彼女に言った。だが、こうしていつもと変わらぬ姿を見せるのは、あの言葉が彼女にとってなんの慰めにもならなかったということに他ならない。
 マティアスは少しだけ眉を寄せ、焦れたように言った。
「……それは王に言われたから?」
「違います」
 黒い瞳を真っ直ぐに向け、彼女ははっきりとそう告げた。それを見たマティアスがハッと息を呑む。
「国王の言葉がきっかけになったのは確かですが……色んな土地と深く関わりがあったほうがいい、とアヴァード様も言っていました。それなら巫女として今のこの国の状況をしっかり見ておきたいと思ったんです」
 彼女はただ流されて "いい子" でいるだけではない。その内に自らの意志をちゃんと持っている。
 己の目を見据えてはっきりと告げるその瞳に、マティアスは胸に湧き上がるものを感じた。

―― ああ……この瞳だ… ――

 形のいい口元に笑みを乗せ、妖艶に微笑む。
 初めて彼女を見た時、マティアスはただ単に "禁忌の双子" であるその存在に興味を引かれた。この世界では双子そのものが数少なく、そしてその大半が忌み子として屠られる。だから初めて直に見るその存在に彼の知識欲が刺激されたのだ。
 双子として血肉を分けてこの世に生を受けた二人は見事なほどにそっくりで、初めはさすがに驚いたものだ。同じ顔、同じ色。ただそれだけ見ればおそらく区別はつかないだろう。
 しかし、その中身は全く違っていた。
 明るく快活な美陽。物静かで何処か翳のある美雨。知れば知るほど正反対だと感じる。それは光と闇のようであり、まるで神話の中のレゼルとリグドのようでもあった。
 美雨と美陽、二人を知るたびにマティアスの興味は尽きることなく湧いてきた。
 だが、今この胸を占めているのはただの興味ではない。
 他人と距離を置き、誰かを頼ることのない美雨。その彼女がふとした時に見せるこの強い瞳に惹かれているのだ、と気付いた。
 冷遇されていたとはいえ王族に席を置いていた自分の周りには昔から数えきれないほど多くの人間が集まって来たが、美雨のような眼差しの者は誰一人いなかった。
 媚を売るか、敵意を向けるか、そのどちらかであった。
 そしてその多くが、否、その全てが "皇太子" としての自分しか見ておらず、マティアス本人を見ようとする者はいない。
 王族として生きる者にとってそういったものは付き物だと分かっている。だが、元より皇太子という身分に興味のなかったマティアスにとって、その視線はいつの頃からか辟易するものへと変わっていった。
 余計な敵を作るまいとして諍いを躱しながら生きてきた中で身に着いたのは、常に絶やさぬ笑顔と己の感情を内へと沈める術。それらを駆使して絵に描いたような皇太子を演じてやった。
 宮殿を飛び出して神殿に身を置いた後もその視線はなくならず、表立ってはいないものの、やはり皇太子として扱われているのは知っていた。だから余計に知識を高めることに没頭し、四神官に選ばれる頃には誰の目から見ても明らかなほど彼の博識は群を抜いていた。
 さすがにゼノフィーダ神殿に集まった選ばれた四神官達はマティアスの出生など全く気にもしておらず、それがとても新鮮だった。
 そしてそこで出逢った最初の巫女、美陽はもちろんそんなことを知る由もなく、マティアスを頼って懐いてくれていた。可愛らしい妹が出来たようだ、と微笑ましく思ったのは忘れない。
 だが、美雨に対する感情はそれとは違う。
 いつもは何処か翳のある瞳が時折、射抜くような眼差しに変わる。強い意志を秘めたような真っ直ぐな黒の瞳がたまらなくマティアスを惹き付けるのだ。
 あの時、謁見の間で見せた強さ、そして鐘塔で垣間見えた弱さ。
 薄氷の上に立っているような、そんな危うさのある娘だ、とマティアスは思った。
「……駄目、でしょうか」
 美雨の声にハッと我に返ったマティアスは自身に向けられている真っ直ぐな目を見つめ返し、逡巡した。
 あの国王を見れば一目瞭然かもしれないが、この国は良くも悪くも信仰とは程遠く、己の利益にならないことはどうでもいいと考える者が多い。美雨が "禁忌の双子" であったからといってさほど気に留める者はないだろう。
 だが、さすがにこの状況下だ。巫女や神殿に対して不満が溜まっているということも考えられるし、逃げ出したと囁かれている前巫女と同じ顔をした者がいるのだからその不満が爆発してもおかしくはない。
 万が一にも王都で暴動が起きた時のことを考えたら止めておくのが賢明だ。前回のように簡単に鎮まってくれるとも限らないのだ。
「………」
 そんなことを考えている間も美雨は無言のまま、じっとこちらを見ている。彼はふっと小さく息を吐くと口元に笑みを浮かべた。これほど強い瞳を向けられてそれを素気無く断るのも無理な話だろう。
 黙って彼らのやり取りを聞いていたレイリーをちらりと振り返ると、彼もまた笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「使える時間は午前中だけだけど、それでもいいかい?」
「はい。我侭を言ってすみません」
「いいよ。君が初めて言ってくれた我侭だからね。叶えてあげるのが私の役目だ」
 そう言ってマティアスは目を細め、それから彼女の頭を優しく撫でた。
「でも、初めての我侭がこんな頼み事だなんて君らしいね」
 その一言に美雨は困ったように俯きながら、ありがとうございます、と言った。




「街へ行く?」
 朝食の後、皆に美雨の希望を伝えたところ、一番初めに驚いた声を出したのはディオンだった。
「ああ」
「王都は危険も多いから、って渋っていたのはマティアスだろ。いいの?」
 クートも少しばかり驚いたようにそう言った。
「そうなんだけどね。ミウにお願いされたら断れないだろう」
「……あっそ」
 マティアスの軽口に呆れた口調で返し、クートはそっぽを向いた。それを横目にディオンが食い下がる。
「本当にいいのか?また前のようなことになったら」
「私達が守ればいい。その為の守護者なのだから」
「だが……」
 北の大陸の時のような騒動を危惧してか、ディオンはなかなか首を縦に振らない。言い合う彼らの側に行き、美雨はおずおずと口を開いた。
「あの」
 二人の視線が一斉にこちらに向き、思わずたじろいでしまう。
「我侭言ってすみません。迷惑かけるのは分かってるんですけど……お願いします」
 そう言って頭を下げると、ディオンは困ったように眉を寄せ、息を吐く。そして渋々といった風に頷いた。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「いちいち礼など言わなくていい」
 そう言ってディオンは小さく苦笑すると、美雨の頭をぽんぽんと撫でた。

―― あ…… ――

 美雨は思わず俯いた。
 ディオンの何気ない仕草がマティアスのそれを思い出させる。いい子だ、と言って子供を褒めるように頭を撫でるあの仕草を。
 昨夜、マティアスはああ言ってくれたけれど、美雨自身どうすることも出来なかった。結局のところ、皆が望む巫女になる為に、とこうして "いい子" を演じているのだ。それを彼はどう思っただろうか。
「決まりだね」
 マティアスの声にハッとして美雨は顔を上げた。こんなことを考えている場合ではない、と自分を叱咤する。
「時間があまりないから街を見た後、そのまま出発しようと思うのだけれど、どうかな?」
「その方が良さそうですね」
 レイリーが賛同し、他の二人も頷いて同意を示す。
「それじゃあ、私はトゥーレ様に出立を伝えてくる。すまないけど誰かミウを部屋まで頼めるかな?」
「では私が」
 そう言ってレイリーが静かに立ち上がり、美雨の手をとった。
「行きましょう」
「はい」
 一足先に部屋を出て行ったマティアスの後を追うように、美雨もレイリーに連れられて自室へ向かった。
「ちゃんと眠れていますか?」
 その途中、ふとレイリーに問われ、美雨が見上げると彼はぴたりと足を止めた。それに釣られて足を止めた美雨の頬に彼の手が伸びてくる。親指で目元を拭うようにそっと触れられ、美雨は思わず片目を閉じた。
「少し目が赤くなってます」
 心配そうな声音がすぐ近くで聞こえる。覗き込むようにしていたレイリーから慌てて距離を取ると、美雨は勢いよく首を振った。
「昨日は少し考え事をしていたから寝るのが遅かっただけで」
「それならいいのですが。ミハルも眠れずに時々こうして目を赤くしていたことがあったので」
 何気ないその一言に胸の奥がチリッ、と痛んだような気がした。それに気付かないフリをしてレイリーから視線を外す。
「大丈夫です」
 それだけ答えると、美雨はレイリーの横を通り過ぎて歩き出した。半歩遅れて彼も後ろからついてくる。
 互いに交わす言葉もなく部屋の前まで辿り着くと、先に戻っていたカヤが丁度出迎えに扉を開けて待っているところだった。
「それじゃあ準備が出来た頃にまた迎えに来ますね」
「はい」
 先程胸の奥で感じた何かを誤魔化すように、美雨はこの街で初めてとなる顔見せの為の準備を整え始めた。






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