神殿に着くなり部屋に戻された美雨は窓辺に置かれた椅子に腰掛け、ぼんやりと外を眺めていた。
 あれから数十分経っている。マティアスは謁見の間での出来事を他の三人の神官に話し終えただろうか。王とはいえ、簡単に他者に貶められるような頼りない巫女を皆はどう思っただろう。
 暗い空に目を向け、美雨は小さく息を吐き出した。

―― どうしてかな……怖い、なんて… ――

 誰にどんな風に思われても気にしてこなかったはずなのに、今はそれを知るのが少しだけ怖かった。そしてそう思ってしまうが故にカヤにも事の顛末を伝えることが躊躇われ、結局美雨は口を閉ざしたままだった。
 どうしてそんな風に感じるのか自分でも分からず、困惑する感情を持て余していると部屋にノックの音が響いた。すぐさまカヤが立ち上がり、入り口に向かう。
「兄様」
「ミウはいるかな?」
「ええ」
 そのやり取りが聞こえ、美雨は窓の外に向けていた視線を扉へと動かした。カヤの背中の向こう側にはマティアスが立っており、彼は美雨と視線が交わるといつもと変わらない笑みを浮かべて言った。
「ミウ、少し散歩に行かないかい」
「はい」
 美雨は考える間もなく頷いた。皆に話し終えた報告だろうと思ったし、美雨にも彼に伝えたいことがあったからだ。
「ミウ様、外は冷えますのでこれを」
「ありがとう」
 カヤが持ってきてくれた厚手のストールを肩から羽織り、美雨はマティアスの側に行く。隣に並ぶとすっと腰に手を添えられ、自然な形でエスコートされた。
「それじゃあ少しミウを借りていくよ」
 そう言って部屋を出たマティアスはあの鐘塔への道を歩き始めた。
 階段を上り切った先の扉を開けて外に出ると、夕方に差し迫る時間ということもあって一段と薄暗くなった空の下、街の灯りが浮かび上がっているのが見えた。幻想的ともいえる薄闇の奥に灯りが密集している場所があり、そこが宮殿であることが分かった。
 何気なくそちらに目を向けていると、不意に現れた大きな手が美雨の視界を塞いだ。背中側から回された腕にそっと包み込むように抱き寄せられる。
「そっちは見なくていいよ」
 真っ暗になった視界の中でマティアスの優しい声だけが聞こえた。
「……今日は本当にすまなかった」
 そう言った後、目を塞いでいた手が離れ、美雨の体がくるりと反転させられた。向かい合わせになった彼の端正な顔には苦々しい表情が浮かんでいる。
「やはり連れて行くべきじゃなかった」
「あれは王命だったんだし、行くと言ったのは私です。あなたが謝ることなんて」
「いいや、私の考えが至らなかった所為で君に嫌な思いをさせてしまった」
 美雨の言葉を遮り、マティアスは形の良い眉を寄せてそう言った。だが、美雨は彼の瞳を真っ直ぐに見つめ、小さく首を横に振った。
 あの時、王から非情な言葉を投げられて思わず反論してしまった自分をその背に庇い、怒りを買うのも恐れずに守ってくれたのは他でもないマティアスだ。彼は自分よりも激しい怒りを湛えて王に向かってくれた。
 誰かがそばにいてくれることを心強く思ったのはいつ以来だろうか。

―― だけど…… ――

 美雨は少しだけ視線を下げた。
 守られたことによって彼から奪ってしまったものがある。そのことを謝ろうと口を開きかけた矢先、マティアスが言った。
「私が王族だと知って驚いた?」
 突然切り替えられた話に虚を突かれた美雨は出しかけた言葉を呑み、こくんと頷いた。
 マティアスが王族だということを知って驚いたのは確かだ。
 だが、驚きはしたが王族という言葉は違和感なく彼に馴染んでいた。元より貴族のようだ、と思った時もあったことから妙に納得すらしてしまう。こうしてただ話しているだけでも絵になるくらいその姿に非の打ち所はなく、それが生まれ持った気品やら風格といったものなのだろうか、と思った。
 納得といえばもう一つ、どうして彼がラターニア神殿の他の神官、延いては神官長からも一目置かれるような扱いだったのか不思議に思っていたが、その理由も今日の謁見で納得がいった。
 今になって考えて見れば、国王からの書簡が直接マティアスに届くこと自体がおかしな話だ。普通ならば神殿に宛ててくるはずで、関わりのない一個人に国王が書簡を出すなどまずあり得ない。
 そんなことを考えていると、マティアスが肩を竦めて言った。
「まあ、王族といってもただ名前を与えられていただけだけど」
 意味が解せずに美雨は首を傾げた。
「私の母は王立研究所の学者でね。先代の王に見初められて後宮へ召し上げられたのだけれど、平民出の母とその血を継ぐ私の扱いはなかなか辛辣だったよ」
 初めて聞く彼の過去にじっと耳を傾けながら、美雨は少し前にマティアスの様子がいつもと違うように感じたことを思い出した。あの懐中時計を見せてもらった時のことだ。
 あの時、彼の顔にはいつもと同じような笑みが浮かんでいたにもかかわらず、何故かそれが冷たいものに感じられたのはこういった彼の過去があったからなのだろうか。
「まあ、私は元から王位にも興味がなかったし、母に似たのか、子供の頃から知らないものを学ぶのが楽しくてね。早々に王宮を出て神官になったんだ」
 学者ではなく神官を選んだのは、広く様々なことに見識を持つなら神官が一番だと思ったからだそうだ。なるほど、確かにアヴァードは賢者と呼ばれ、彼の博識には舌を巻くものがあった。
「そして今は四神官になったおかげでより多くのことを学ぶことが出来る」
 マティアスはそう言って本当に嬉しそうに笑い、だから、と言葉を続けた。
「ミウが気にすることは何ひとつないよ」
「……っ…」
 見上げたマティアスの顔には優しい笑みが浮かんでいた。
 美雨が何を気にしていて、何を言おうとしていたのか、彼は全て気付いていたのだろう。気付いた上でそう言ってくれたのだ。
「王族のしがらみを嫌っていたのに見て見ぬ振りをしてきた付けが回ってきた。もっと早くに清算していればこんな風に君を傷付けたりしなかったのに」
「………」
「本当にすまない」
 謝らなくてはいけないのは自分の方だ。
 姓を捨てるという事は家を捨てるのと同義。いくらマティアスが気にするなと言ったとて、はいそうですか、と簡単に頷けるはずがない。

―― だって……私の所為で… ――

 これは美陽がこの世界にいたままだったならば起こり得なかったこと。身代わりの自分を庇ったばかりにマティアスはその名を捨てる羽目になったのだ。
「……ごめんなさい」
 謁見の間を出たあとに、そしてさっき言いたかったことをようやくこの場で口にする。ずっとこの一言を伝えたかったのだ。
 すると彼は微かに目を細め、それからぽつりと呟くように言った。
「いい子だね」
 ふっと浮かべた笑みが何故か悲しげに見えたように感じ、美雨は黙ってじっと見つめ返した。
「ミウはいつも自分より他人のことを先に考える」
「え?」
「あんなことを言われて辛い思いをしたのは君なのに、それでもまだ私のことを気にしている」
「だってそれは……」
「今日のことだけじゃない。今までだって弱音も吐かずに頑張って、努力して……本当にいい子だ」
 マティアスの大きな手が美雨の頭を優しく撫でる。子供を褒めるときのような柔らかい手つきで何度も何度も撫でていく。
 でも、と彼は言ってその手を止めた。マティアスの青灰色の瞳が真っ直ぐに注がれる。
「ずっといい子で居続けるのは疲れないかい?」
 美雨の思考は一瞬止まり、それからその言葉が意味するところに気付いた。狼狽し、泳いだ視線はそのまま自分の足元に落ちていく。
「私、は……」
 掠れた声が夜の闇に消える。続く言葉が出て来ず、美雨は口を閉ざした。
「ミウ」
 不意に頬にふわりと手が添えられた。
 俯けていた顔をすっと持ち上げられ、間近でマティアスと視線が交わる。そこにあったのは軽蔑するわけでも責めるわけでもない、ただ優しいだけの瞳。
「私の前ではいい子でいなくてもいいんだよ」
 その宥めるような、諭すような優しい声音に、美雨の瞳が微かに揺らいだ。




 ベッドに横になり、目を瞑る。だが、眠気はなかった。耳に付けられた神具を手持ち無沙汰に指で弄るとシャラ、と細い音が鳴る。
 頭の中ではまとまらない思いがぐるぐると巡っていた。

"美雨ちゃんはいい子ね"

 遠巻きにこちらを眺めている大人達の姿。だけど、いい子だ、と口を揃えて言いながら誰もが皆、美雨ではなく天真爛漫で愛らしい美陽を可愛がった。
 勉強もスポーツも好きだったわけじゃない。ただ、それらを頑張って真面目ないい子でいれば頭を撫でてもらえた。だから少しでもこちらを見て欲しくて、少しでも褒めて欲しくて、出来ることは何でもやった。
 頑張って、努力して、我が儘も言わず、必死になった。
 だけど、どんなに努力しても、どんなに我慢しても、愛されるのは美陽だけなのだと気付き、美雨は諦めることを知った。
 しかしながら幼い頃からの習性というのはなかなか消えないもので、仕方がない、と諦めた後もそうやって "いい子" で居続けるのが当たり前になっていた美雨にとって、いつしか好きなこと、嫌いなこと、その区別さえつかなくなった。
 好きではないが嫌いでもない。嫌いではないが好きでもない。気付けば自分の中はそんなあやふやなものばかりで埋まっていた。
 だから先日、マティアスに自分のことを教えてほしいと言われた時、言葉に詰まったのだ。答えなかったのではなく、答えられなかった。好きなことも嫌いなことも、何も思い浮かばなかった自分がひどく虚しく思えた。

"ずっといい子で居続けるのは疲れないかい?"

 マティアスに言われた瞬間、美雨は恥ずかしさに顔を上げることが出来なかった。
 自分の中のあざとい部分を見透かされ、返す言葉もなかった。

―― でも、他にどうしたらいいのか分からない…… ――

 "いい子" で塗り潰された自分。
 "いい子" じゃない自分がどんな色をしていたのか、それさえ曖昧になってしまった。
 自分の前ではいい子でいなくてもいいのだ、とマティアスは言ってくれたが、美雨自身、何処までが演じていたもので、何処からが本当の自分なのか、最早分からなかった。
「………」
 美雨は小さくため息をつくと、コロンと仰向けになった。暗闇に慣れてきた目でぼんやりと天井を見つめ、思い浮かべたのはマティアスのことだった。
 数ヶ月の短い付き合いではあるが、彼が激昂するほど感情を揺らした所は見たことがなかった。その所為か、彼の端正な顔に浮かぶ笑みは美しいが何処か作られたもののように感じられていた。
 だが、その印象は今日の謁見を境にガラリと変わった。
 より多く学べる、と言った時の嬉しそうな顔や、いい子でいなくてもいいのだ、と言った時の自分を見つめる優しい笑みは、これまでのものとは全く異なっていた。
 今まで感じていた無機質さは何処にもなく、ただ温かさがあった。
 美雨はふと思った。
 マティアスもまた、自分と同じように何かを演じ続けていたのだろうか、と。
 もしそうなのだとしたらきっと彼は取り戻したのだろう。笑顔という仮面の下にひた隠しにしてきた本当の自分を。美雨には到底見つけられそうもない、本当の自分を。
 閉じた瞼の上に腕を乗せ、美雨はきゅっと唇を噛み締めた。






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