マティアスは玉座にいる異母兄をひどく冷めた目で見つめていた。傲慢で不遜な態度をとるこの男に呆れと諦めが込み上げ、最早フリですら敬う気にならない。
「知る者もいない世界にたった一人放り込まれ、それでもミウもミハルもこの世界の為に懸命になってくれている。貶められる謂れなどどこにもありません」
 ぐっと言葉を詰まらせた王に畳み掛けるように言葉を続けた。
「大体、以前は歓待をしておきながら情勢が悪くなった途端に手の平を返したように暴言を吐くなど、ラーグ一を誇る大国の王が聞いて呆れますね」
「…っ……貴様…」
「マティアス……もう」
 後ろから弱々しい声が聞こえてきた。美雨の小さな手が縋るように己の服を掴んでいる。
 おそらくこの身を案じてくれているのだろう。確かにこれ以上、王の怒りを買ってはいくらマティアスが王族だったとしても不敬罪に問われかねない。
 だが、マティアスは不安気にしている美雨をちらりと見やると大丈夫、と言い聞かせるように目元を和らげた。場の空気にそぐわない優しい笑みに、美雨は虚を衝かれたように口を閉ざした。
 笑みひとつで続く美雨の言葉を遮ると、マティアスはかつてないほどの怒りが籠もった青灰色の瞳を王に向けた。

―― 黙っていられるものか ――

 己が全身全霊をかけて護ると誓ったものをここまで侮辱され、それを許せるほど寛容な心など持っていない。自身にも感じたことのない怒りが沸々と湧いてくる。
「貴様は……王族に生まれておきながら王家ではなく巫女の肩を持つか」
 当たり前のことを問うてくる王に、マティアスは憮然とした態度で答えた。
「四神官の一人なのですから当然でしょう。それに王族は王家の為ではなく民の為に在るべきだ。それすら忘れて権威を振るうだけの王家など守る気にもなりませんね」
「……所詮は賤しい血の混じった者だな。話にならん。もうよい、下がれ」
 苛立ちを隠そうともせずにそう吐き捨て、王は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたまま二人を追い払うようにその手を振った。
 その王に向かって嫌味なほど綺麗な一礼をすると、マティアスは背中に隠していた美雨の肩を抱き、そのまま踵を返した。そして広間の中程まで来た時、その足をぴたりと止めて振り返った。
「ああ、そうだ。陛下、これはお返しします」
 思い出したようにマティアスは胸元から何かを取り出し、放り投げた。カシャン、と硬質な音が鳴り、辺りが静まり返る。深紅の絨毯の上に転がったのは古びた金色のあの懐中時計だった。
「それは……それを捨てるという事がどういう事か分かっているのか」
 驚きを含んだ声で王は言った。
「ええ、もちろん。ラヴランの名も、王族の証も、一切いりません。私には邪魔なだけですから。もっと早くに捨てておくべきだったと後悔していますよ」
「……っ…」
「全てを捨てる代わりにもう二度と私に干渉しないで頂きます。もちろん巫女への手出しも一切許さない。まあ、賢明な王ならば世界中を敵に回すようなことはなさらないでしょうが」
 皮肉を言い捨て、再び歩き出そうとした背中に王の悔しげな声が聞こえてきた。
「……叡智を誇る神殿も地に落ちたものだな。身代わりの巫女なんぞにこの世界が救えると本気で思っているのか」
 その一言に抱いていた美雨の肩がびくりと小さく震えた。

―― まだこの娘を傷付けるのか ――

 俯く美雨を見つめ、マティアスはここへ連れてきたことを心の底から後悔した。頼りない彼女の細い肩をギュッと抱き寄せる。
「そうですね」
 そう言って振り向くとマティアスは王に笑みを向けた。端正な顔に浮かぶのは美しく、けれどそれ故にひどく酷薄な雰囲気を持つ笑み。そして彼はぞっとするほどの冷たい声音で言い放った。
「平気で人を貶めるあなたのような人はきっと救われないでしょうね」
 そのまま流れるように身を翻し、美雨を連れて広間の扉へ向かう。後ろで王が何やら叫んでいたが、マティアスが振り向くことは一度としてなかった。




 ガタガタと揺れる車輪の音だけが車内に響き、ひどく重苦しい空気が漂っている。
 来た時のような緊張感はもうないが、窓の外の街並みに気を向けられるほどの心の余裕も今の美雨にはなかった。ただ黙って膝の上に置いた手元に視線を落としている。
 歓迎されるとは思っていなかったが、まさかあそこまで嫌悪を向けられるとも思わなかった。

"身代わりの巫女"

 最後に投げつけられた王の一言が耳に残っている。
 美陽の代わりだということは自分が一番よく分かっている。だが、こうして他人から言われることがこれほどまでに大きな衝撃を生むとは知らなかった。

―― 分かりきってたことなのに…… ――

 王の言葉はしこりのようなものに変わって胸の奥深くに沈んでいく。
「……ミウ様…」
 その声にふと隣を見ると不安そうな顔をしたカヤが美雨の様子を窺っていた。
 それも当たり前のことで、ロクに説明もされないまま王宮を後にし、重苦しい空気の中に身を置いていれば誰でも不安になるというものだ。
 美雨は彼女の不安を少しでもなくそうとぎこちなく口の端を上げて見せた。だが、それは笑みと呼ぶにはあまりにも拙いもので、それを見たカヤは余計に不安気に眉を下げてしまった。
 そばに居てくれる人を安心させてあげることも出来ない、言葉足らずで感情表現が下手な自分が嫌になる。さっきもそうだった、と美雨はつい先ほどのことを思い出した。
 それは謁見の間を出てすぐのことだった。
 肩を抱かれたまま、早足で歩く彼について半ば引っ張られるようにして歩いていた美雨は後ろを振り返りながら足を止めかけた。
「マティアス」
 恐る恐る声をかけるとようやく彼の視線が向けられ、つとその歩みが止まる。マティアスにじっと見つめられ、何となく視線を下げたと同時に、美雨の体がふわりと浮きあがった。
「えっ」
 驚いて視線を上げると間近にマティアスの顔がある。
「すまない、気が付かなかった」
 軽々と美雨を抱き上げながら彼は苦笑した。
 美雨自身も気付いていなかったのだが、小走りに近い速度で歩いていたことで息は上がり、そして先ほどまでの緊迫した雰囲気に中てられてしまったのか、その頬は少し蒼褪めていた。
 いきなり抱きあげられた美雨は咄嗟にマティアスの肩にしがみ付く。そして少し困ったように眉を寄せながら言った。
「違うんです、あの」
 体調のことなど自分ですら気付いていなかったのだからそんなことはどうでもいい。それよりも言いたかったのは別のことだ。
 だが、美雨が言いあぐねている間にマティアスはしっかりと彼女を両腕に抱え直し、足早に歩を進め始めた。
「しっかり掴まっていて」
 まるで一秒でも早くこの場所から離れたいとでも言うようなその雰囲気に美雨は言葉を呑んで黙り込む。気まずい沈黙の中、床を蹴る足音だけが響き、そうして他の皆が待機する別室に着くまで、二人の間に言葉はなかった。
 そこまで思い出した美雨は気付かれないようにちらりとマティアスを見やった。
 彼は少しだけ顔を俯け、静かに目を閉じている。一見、眠っているようにも見えるが、彼から放たれる雰囲気がそうでないことを如実に物語っていた。
「………」
 美雨は視線を手元に戻し、そっと息を吐く。
 目の前にはピリピリと気を張り詰めているマティアス。隣には心配そうにしているカヤ。そしてどうしたらいいのか分からず、ただ黙ることしか出来ない自分。
 そこから神殿までの道のりは来た時の倍以上あるのではないかと思うほど長く感じられた。




「少し部屋で休んでおいで」
「でも」
「カヤはミウのそばに」
「は、はい」
 神殿に着くなり、マティアスは有無を言わせずに美雨とカヤを部屋に下がらせた。後ろ髪を引かれるように何度か振り返りながら美雨が去って行く。
「……何があった?」
 彼女の背中を目で追っていたディオンはそれが見えなくなると低い声で問うた。その顔には険しい表情が浮かんでいる。
 神殿の別室で待機をしていた彼らの元に美雨とマティアスが戻ってきたのは謁見が始まってからそれほど時が経たぬうちだった。扉を開けたマティアスと、その後ろに立つ美雨の雰囲気から何か良からぬことがあったのだと想像がついた。
 話は神殿でする、と言ったマティアスの言葉に頷き、その場での追及は控えて彼らは神殿を後にした。来る時とは違って誰一人見送る者はおらず、遠巻きにざわついているのを感じた。
「とりあえず、どこか部屋に入ろうか」
 マティアスが小さく息を吐き、こちらの方に向き直った。
 近場の空いている一室に入った四人はテーブルを挟んで並べられている椅子に腰を掛けた。三人の視線がマティアスに集まり、それから彼は謁見の場での一部始終を話し始めた。
 それらを聞きながらディオンは内心驚いていた。否、ディオンだけではなかっただろう。
 マティアスの顔にいつも浮かんでいる笑みは影を潜め、代わりに苛立ったように眉が顰められていたからだ。感情を高ぶらせるようなことは滅多にない彼が、こうも不機嫌を露わにするのはひどく珍しかった。
「王ともあろう者があれほど愚かしいとは思いもしなかったよ」
 全て話し終え、吐き捨てるようにそう言ったマティアスに、ディオンは思案気な顔で尋ねた。
「このままここにいて大丈夫なのか?」
 王政のこの国では例えどんな愚者だろうと王が最高権力者であり、その王に刃向えば反逆者として捕えられかねない。だが、マティアスはディオンの懸念に肩を竦めて見せた。
「不敬罪で捕らえるのなら宮殿を出る前にしていただろうし、問題ないと思うよ。さすがの王も神殿を敵に回したくはないのだろうね」
「ならいいのだが」
 まだ少しの不安は残るものの、ディオンは納得して頷いた。
 確かに光を取り戻す為の唯一無二の存在である巫女に何か危害を加えるということは考えにくいし、この世界の根幹を担っている神殿から睨まれるようなことは王とはいえ避けたいはずだ。
 そんなことを考えていると、今まで黙って聞いていたレイリーがぽつりと呟いた。
「……ミウは大丈夫でしょうか」
 その一言に皆の表情が一斉に曇った。
 一国の王から向けられた言葉は二十歳にもならない娘が受け止めるには悪意が強過ぎた。謁見の間から戻って来たあの時、マティアスの後ろで少し蒼褪めていた彼女を思い出す。
「大丈夫……と言うのだろうね、あの子は」
「……そうですね」
 これまでの美雨を見ていればその情景は容易く想像出来る。それはレイリーも同じだったのだろう、彼は悲しそうに頷き、そしてディオンは苦々しく眉を顰めて小さく息を吐いた。

―― やはりまだ誰にも頼ろうとはしないのか…… ――

 東の大陸へ渡る前に美雨に告げた言葉を思い出す。
 頼って欲しい、と言ったのにやはり彼女は何も言ってきてはくれない。何処までも頑なな美雨に、そして何よりも彼女の支えになってやれない自分の不甲斐無さにディオンは焦れた。
 マティアスも少しだけ眉を下げ、苦笑のような笑みをその顔に浮かべている。
「ここにいるのはミウも気が休まらないだろうし、明日の出立を少し早めようか」
「じゃあ俺は荷の確認をしてくる」
 そう言ってクートが片手を机に置いて立ち上がった。昼過ぎに出立する予定であった為、まだ準備が整っていなかったからだ。
「ああ、ありがとう」
 クートに礼を言い、マティアスもゆっくりと腰を上げた。どうやらこれで区切りのようだ。
「とりあえず報告は以上だよ。何か聞きたいことはある?」
 三人の顔を見回しながら言うマティアスに、ディオンは思考を一度止め、首を振って答えた。他の二人も異論ないらしい。
「それじゃあ私はミウの様子を見に行ってくるよ」
 扉に向かうマティアスの背を見つめ、ディオンは無意識にその手をきつく握り締める。美雨のそばにいられないのがひどく歯痒かった。






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