「"見上げる…と……たくさんの…星が" ……えっと…」
「"輝いていた"」
「これが "輝く" ですか?」
 そう言って美雨は読めなかった文字を指で指した。彼女の隣に椅子を並べて座るマティアスは正解の意を込めて笑みを返す。
 机の上に広げられているのは先ほど彼女が勉強の為に読んでいた絵本だ。作法を教えるのも生徒の覚えがいいものだからそれほどかからずに終わり、時間が余ったので字を教えていたのだ。最初は断っていた美雨をマティアスが笑顔で押し切り、渋々ではあるが教わるのを了承させた。
 それにしても、とマティアスは真剣な眼差しで本を読む美雨をちらりと見て思った。
 たどたどしくはあるものの、ラーグに来てまだ数ヶ月も経っていない彼女がここまで読めるようになっていたというのは驚きだった。
 確かに空いている時間もあったが、長距離の移動や儀式の舞で体力はもちろん、精神的な面でも相当負担があったはずだ。その状態で一体どれだけ勉強したのか。
 美雨にも言った通り、楽をすることはいくらだって出来る。世界を救う巫女なのだから、と尊大に振る舞ったところで誰一人文句を言う者などいないだろう。だが、彼女はそうはしない。

―― 真面目と言ってしまえばそれまでだが…… ――

 あまりにも懸命過ぎる姿に一種、強迫観念にも似たものを感じるのは考え過ぎだろうか。まるでそうしなければならない、とでも思っているみたいだ。
 そんなことを考えながらじっとその横顔を見ていると彼女の声がつと止まった。小首を傾げて考える姿が普段より少し幼く見える。
「ここは "触れようとして" だよ」
 指でトン、とその場所を示してやれば美雨の視線がこちらに向いた。
「どうかしたかい?」
「……あの、もう大丈夫です」
「え?」
「一人でも勉強出来ますから、私の為に時間を使わないで下さい」
「ああ、そういうことか」
 マティアスは小さく呟いて苦笑した。最初に断ったのはその為だったのか、と納得する。
 だが、美雨の居た世界の文字が載った辞書など一切ないのだから誰か教える者が居なければ知らない単語を読むことは出来ない。それが分からない彼女ではないのに、やはり誰かを頼ろうとはしないようだ。
「ミウは……」
 言いかけて、マティアスは止めた。きっと聞いても彼女は口を閉ざすだけだ、と思ったからだ。
 止めた言葉の代わりにふっと笑みを浮かべて彼女を見つめる。
「私の時間が無くなると心配してくれたのかな」
 こくん、と小さく美雨が頷いた。
「それこそ大丈夫だよ。君が思っているよりも忙しくないし、何より四神官の本分は巫女を護り、助けることだからね。君が私の時間なんて気に掛ける必要はないよ」
「でも……」
 納得出来ないのか、口籠って視線を下げた美雨を見て、ふと名案が思い浮かんだ。
「それじゃあ、授業料を貰おうかな」
「授業料?」
 意外な言葉に彼女の視線がマティアスの方に戻ってきた。その瞳に向かって穏やかに笑んでみせる。
「そう。君に言葉を教える代わりに、私にミウのことを教えて」
「私の……?」
「好きなこと、嫌いなこと。何でもいいよ」
「………」
 口元に指先を当てて逡巡していた美雨だが、ついには困ったように黙り込んでしまった。そんな彼女にふっと苦笑する。
「難しい?」
 言葉はなくても目を伏せたことがそのまま答えになった。
「ごめんね、困らせるつもりじゃなかったのだけど」
 そう言ってマティアスは美雨の頭を優しく撫でた。艶のある髪がさらりと流れ、少しだけ俯いた彼女の表情を隠してしまう。
 探り方が安易過ぎたな、と思うものの、小さな子供でもすぐに答えられるようなことを聞いたにも関わらず、答えられなかった彼女に少しだけ引っかかった。
「……すみません」
「謝らないで。授業料は他の方法で貰うことにしたから」
「え?」
 小さな声が零れるのと同時にマティアスは美雨の両頬を包むようにして手を添え、上を向かせた。驚きに少し大きくなった瞳を間近で見つめ、そのまま彼女の額に口付ける。美雨の体がびくりと揺れ、瞬時に硬く強張ったのが分かった。
 それからチュッ、と小さな音を立ててマティアスはゆっくりと唇を離した。
「本当はこちらを貰いたかったのだけど」
 添えていた手を少しずらし、親指でそっと唇を撫でてやると、彼女の頬にさっと朱が走った。
「……っ…」
「また今度にとっておくよ」
 マティアスは悪戯っぽくそう言うと、極上の笑みを彼女に向けた。




 美雨はこの状況に内心でかなり動揺しながら、目の前の男を見やった。端正な顔立ちに甘い甘い笑みを浮かべ、彼は真っ直ぐに視線を合わせてくる。
 堪えられそうにないと思った瞬間、静かだった部屋にノックの音が飛び込んできた。思わずびくりと肩が跳ね、それと同時に金縛りのように固まっていた体が解け、マティアスから半身離れる。
 手が離れたマティアスはふっと笑い、今まで美雨の頬を包んでいた両手を降参するかのように顔の位置まで軽く上げ、そのまま下ろした。
「どうぞ」
 ノックに答えたのもマティアスで、その返答の後、部屋の扉が開いてカヤが顔を覗かせた。
「ミウ様、ただいま戻りました。遅くなって申し訳ありません」
「お、お帰りなさい」
 このタイミングで戻って来てくれたお陰でマティアスから離れることが出来たが、今度はどんな顔をしてカヤを見ればいいのか困ってしまう。
「お帰り。急に遣いを頼んで悪かったね」
 どうやらカヤの外出はマティアスが何かを頼んでのことらしい。赤くなった頬に気付かれないように少しだけ顔を逸らしながら、美雨は二人の会話に耳を傾けた。
「書簡は渡せた?」
「ええ、陛下の側近の方にきちんと渡して参りましたわ」
「そう、ありがとう」
「それにしても相変わらず堅苦しい所ですわね」
 疲れたようにため息を吐くカヤに、マティアスが愉快そうに笑った。
「カヤは本当に姉さんに似ているよ。姉さんも昔から堅苦しいことが大嫌いだったからね」
「兄様も、でしょう?」
 その返しに答えず、マティアスはただ笑っている。
「あ、そうですわ。兄様、先にこれ、お返ししますわ。こんな大切な物、落としてしまったら大変ですもの」
 思い出したようにカヤが胸元から取り出したのは少し古びた金色の丸い物だった。繊細なチェーンが付けられており、マティアスの手に渡った時にシャラ、と小さな音を立てた。
 何だろう、と思って視線を向けると、それに気付いたマティアスがその手にある物を美雨に見せてくれた。
「懐中時計だよ」
 蔦の模様が周囲を縁取り、その中央に描かれているのは羽を広げんとしている鷲の姿。技巧が凝らされた蓋が開けられると、その中にはシンプルだが美しい文字盤が現れた。
「……綺麗」
 思わず手を伸ばし、そっとそれに触れた。
「気に入ったのならミウにあげる……と言いたいところだけど、ごめんね。これはあげられない」
「あ……いえ、そういうつもりじゃ…ごめんなさい」
 美雨はハッとして手を引っ込め、慌てて言った。すると、マティアスの笑い声が聞こえた。
「分かってるよ。こんなものよりももっと綺麗なものを贈るから」
「本当にそんな意味で言ったんじゃな……」
「うん」
 困る美雨の言葉を遮り、分かってるのか分かってないのか、マティアスはただ頷いて笑みを浮かべるだけだった。

―― 気のせい……かな…? ――

 マティアスの笑みはいつも通りのはずなのに、どうしてか違和感を覚えた。こんなに綺麗な時計を "こんなもの" と言った声も心なしか冷たく聞こえた気がした。
「さて、カヤも戻ってきたし、そろそろ私は退散しようかな」
 懐中時計を仕舞い、静かに立ち上がったマティアスの袖を美雨の手が無意識に掴んだ。
「ん?」
「あ……」
 振り向いた彼にハッと我に返る。その視線から逃れるように少しだけ顔を俯け、美雨は言葉を探した。
「あの……ありがとうございました」
 だが、出てきたのは何て事のない平凡な礼の言葉。気の利いたことも言えない自分に呆れていると、頭上からふっと笑い声が聞こえ、ポンポン、と頭を撫でられた。
「どういたしまして」
 柔らかな声で答えた彼の手がするりと離れ、少しして扉が閉まる音がした。彼が出て行った扉をぼんやりと見つめていると、横からカヤの声が聞こえた。
「お勉強されていたのですか?」
「あ、うん。作法を教えてもらってたんだけど、そのあと文字も少し」
 言いながら机に広げていた本を指でなぞる。無意識にしたその仕草につい先ほどマティアスにされたことを思いだしてしまった。せっかく落ち着き始めていた心臓が再び跳ね、頬が熱くなる。
「兄様ったら……ミウ様に文字をお教えするのは私の楽しみですのに」
 腰に手を当てて拗ねたように文句を言っていたカヤがふとこちらを向いた。
「あら?ミウ様、少しお顔が赤いようですが」
「……そう、かな」
 素知らぬフリをしてみたものの、指摘されたことで更に顔が熱くなった気がする。頑なに何でもない、と言い募る美雨に、カヤは不思議そうに首を傾げる。
「お茶を淹れて差し上げようと思っていたのですけれど……温かい物より冷たい物の方がよろしいですか?」
「どっちでも大丈夫。ありがとう」
 帰ってきたばかりの彼女に申し訳ない気持ちはあったが、これ以上自分の情けない顔を見られたくはなく、美雨は素直に頷いた。
 すぐにお持ちしますね、と言って部屋を出ていくカヤの後ろ姿を見送り、美雨は乱れた心を落ち着かせるべく、胸に手を当てて小さく息を吐き出した。






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