神殿に籠る生活が続いて四日目の昼下がり、コンコン、と部屋にノックの音が響いた。
 膝の上に広げた本から目を上げ、美雨は扉を見やった。カヤは先ほど用があると言って出て行ったので今ここには自分しかいない。椅子から立ち上がり、その上に本を広げたまま伏せると扉へ向かった。
「はい」
 そう言って扉を開けると、そこにはいつもと変わらずあでやかな笑みを浮かべたマティアスが立っていた。
「中に入ってもいいかな?」
「どうぞ」
 何の用だろう、と思いながら体を少しずらして入り口を開ける。マティアスはありがとう、と言いながら自然な動きでその扉を押さえ、美雨を先に中へ促してから自らも部屋に入った。
「何か用でしたか?」
「こないだ言っていた作法を教えようかと思って。なかなか時間が取れなくてすまなかったね」
「いえ、わざわざありがとうございます」
 そういえば先日、そんなことを言っていたことを思い出す。わざわざ自分の為に時間を割いてくれたのだと思うと申し訳ない気持ちになる。
 ふとマティアスの視線が窓辺の椅子に向けられ、彼はゆったりとした歩調でそちらに歩み寄った。広げられた本を手に持ち、開いてあったページに目を通している。
「勉強の邪魔をしてしまったかな?もう少し後にする?」
「大丈夫です。空いた時間でやっているだけですから」
「ミウは本当に真面目だ」
「それくらいしかやれることがないだけです」
「楽をすることだって出来るのに、そうしないのが君なんだね」
 柔らかな笑みを向けられ、美雨は少しだけ視線を下げた。彼の言葉にどう返したらいいものか分からなかったのだ。当のマティアスは美雨から返事がないのも気にせず、本を元の位置に戻している。
「それじゃあ早速始めようか」
「お願いします」
 話が逸れたことにホッとしながら、美雨はそう言って頭を下げた。
「まずは基本的な歩き方から」
 そう言いながらマティアスは彼女の左手を取り、自分の右腕に添えるようにして置かせた。
「並んで歩く時、女性は男の利き腕に軽く手を添える。大体が右腕だね。歩き出したら男の半歩後ろを歩く」
 マティアスを見上げると彼は視線だけで促し、ゆっくりと足を踏み出した。自然と美雨も足が出る。
「足元は見ないでね。目線が下がると顔が俯きがちになってしまうから気を付けて」
「は、はい」
 思わず足元に視線がいってしまってことを指摘され、慌てて前に向けた。
「背筋を伸ばして。そう、そのまま真っ直ぐ」
 所々で注意を受けながら部屋をぐるりと二回りほどし、元の場所に戻ったところでマティアスが足を止めた。
「うん、いいね」
 どうやら歩くのは合格のようだ。添えていた手を離そうとするとマティアスの手が上から重なり、それを制した。
「次は挨拶」
「このままですか?」
「パートナーがいる場合は二人で同時に挨拶をするのが通例でね」
 へえ、と美雨は呟いた。やはり教えてもらったのは正解だった。マナーも知らずに王宮へ行くなど、恥をさらすようなものだ。自分だけならいいが、護ってくれている彼らにまで恥をかかせる訳にはいかない。
「女性は空いている手でスカートの端を摘まんで軽く持ち上げ、そのまま膝を少し落とすようにして頭を下げる。やってみて」
「こう、ですか?」
 ふんわりとしたロングスカートの端を摘まみ、持ち上げながら膝を落とす。我ながらひどくぎこちない。
「そんなに頭を下げなくていいよ。軽く伏せるくらいで」
「このくらい?」
「そうだね。じゃあ一緒にやってみようか。私が一礼をしたら一拍置いてから続いて」
 そう言うとマティアスはすっと姿勢を正し、綺麗に一礼をした。優雅ともいえる流麗な所作に思わず見惚れてしまいそうになってから、美雨はハッとして先程と同じようにお辞儀をする。
 何度か繰り返しやってようやく少しは見られるようになったのだろう、マティアスがそっと腕を解いた。
「謁見の時は私が付き添うからこれで十分なんだけど、折角だから一人の時の挨拶も練習しておくかい?」
「あ、はい」
 一人の時の挨拶は片手ではなく両手でスカートを摘まむだけ、という先ほどと大差ないものだった。自分の正面に立ったマティアスに向かって教えてもらった通りに一礼をする。じっと見られているのを感じ、少し緊張してしまう。
「うん、綺麗だね」
 その言葉に安堵して顔を上げると、思いの外近くにマティアスがいた。反射的に後退りしそうになったが、彼の手が美雨の腰を浚ってそれを阻んだ。
「まるで何処かの深窓の姫君のようだ」
「……っ…あの…」
 マティアスがクスクスと笑い、それから彼女の頭に手を乗せた。からかわれているのだと分かっているが、彼の大きな手に頭を撫でられるのは嫌ではなく、それが自分でも不思議だった。
 そんなことをぼんやりと思いながら大人しく撫でられていると彼の手がするりと髪を滑り、項のあたりで止められた。思わず見上げると柔らかく細められた彼の目と視線がぶつかった。
 いつも以上に優しげに見えるその瞳に美雨は少し落ち着かない気持ちになる。
「ミウは本当にいい子だね」
「………」
 その言葉に美雨は何も答えられず、微かに寂し気に揺れた瞳を隠すように伏せた。




 マティアスが美雨の部屋を訪れる少し前、カヤは宮殿へと足を延ばしていた。どうしてかといえばマティアスに遣いを頼まれたからである。
 城門から少し離れた場所で馬車を止めてもらい、その場に降り立つ。相変わらず荘厳な外観に思わず嘆息が漏れた。気を取り直して門前に向かうと、そこにいた二人の門兵に声をかけた。
「もし、そこの方」
「何用だ、小娘」
 一人の兵が振り向き、訝しげな表情を浮かべる。見下すような物言いに少しムッとしたが、それを微笑みで隠しながら用向きを伝えた。
「私はカヤ=オランジュと申します。叔父のマティアス=ラヴランより国王陛下への書簡を預かって参りました」
 そう言ってカヤは胸元から懐中時計を取り出した。少し古びた金色のそれは匠の技が随所に施された見事なアンティーク時計だった。蔦模様に縁取られた蓋の中央には今にも羽を広げんとする鷲の姿が描かれている。
「……っ…」
 それを見た兵士が息を呑んだ音が聞こえた。その顔も見る間に青褪めていく。
「た、大変なご無礼を……宮殿内へご案内致します」
「いいえ、書簡を預けるだけですのでここで結構ですわ。どなたか信の置ける方を呼んで頂けますか?」
 マティアスからも書簡を預けるだけでいいから、と言われている。別にわざわざ宮殿内に入ってまで時間を割く必要はない。
「はっ、すぐに!」
「お願いしますわ」
 懐中時計を仕舞いながらにこりと微笑むカヤを背に、兵は慌てて王宮の中へ入っていく。
 それから十分と経たぬうちに一人の男が門前に現れた。白髪交じりの髪をきっちり撫でつけた初老の男はカヤの前に来るなり、丁重に頭を下げた。
「オランジュ公爵ご令嬢、カヤ様。お久しゅうございます。兵がご無礼を働きまして、まこと申し訳ございませぬ」
「いいえ。こちらこそ突然の訪問、失礼を致しました」
 カヤも淑女の礼を執り、軽く頭を下げる。彼の顔には見覚えがあった。確か古参の臣下で、今は国王の側近のはずだ。彼ならば信頼に足るであろうと思い、カヤは胸元から一通の書簡を取り出した。
「マティアス=ラヴランより書簡を預かって参りました。陛下にお渡し頂けますか?」
「ええ、もちろんです。確かにお預かり致しました」
 丁重な仕草で書簡を受け取ると、男はそれを胸元へ仕舞い込み、深々と腰を折った。
「では私はこれで失礼致しますわ」
「どうぞお気を付けて」
 見送る彼に向けてもう一度軽く礼をし、カヤは再び馬車に乗り込んだ。
 ガタン、と音を立てて馬車が動き出す。少しずつ遠くなっていく王宮を窓から眺め、ふう、と息を吐いた。

―― 相変わらず堅苦しい感じですわね ――

 王都のようなにぎわいのある場所は好きだが、王宮自体はあまり好ましく思っていない。公爵家という高い身分の家に生まれた割に、カヤは堅苦しいことや畏まった場所が苦手であった。
「兄様が余計なことを頼むから」
 小さく口に出して文句を言い、それからふと、先程の懐中時計を取り出した。
 書簡と共にマティアスから手渡された懐中時計。どうしてこんな大切な物を一緒に持たせるのか不思議に思って問うと、彼は笑みを浮かべてこう言った。これと自分の名前を出せば話が早く進むから、と。
 そしてその言葉通り、これを見せた途端にあの兵士の態度が一変した。おそらくカヤ一人であれば話が通るまでにあの倍以上の時間を要したであろう。
 だが、このような遣いならば神殿の者に頼んでもよさそうなものだ。何か考えがあってカヤに頼んだのだろうが、いくら首を傾げても彼女には見当もつかなかった。
 形の良い口元に笑みを浮かべ、感情を高ぶらせた姿など見せたことのない彼の考えなど、幼い頃から今に至るまで一度だって分かったためしなどないのだ。
「あ……でもあの時は…」
 ふと思い出したのは先日のティスカ神殿での出来事。夜中に美雨が一人で抜け出した時のことだ。
 あの時の彼は静かに、だがはっきりと怒りを露わにしていた。もちろん憎く思ってのことではなく、純粋に心配からくるものだっただろう。それでも普段と違う彼の姿がひどく珍しく感じた。
 あれは美雨が大切な巫女だからなのだろうか。それとも他に理由があるのだろうか。
 カヤは手の中の懐中時計を見つめ、それから丁寧に胸元へ仕舞った。あと数十分もすればラターニア神殿に着く。マティアスの心中を探るなど無理なことは早々に諦め、思考を切り替えることにした。
「とりあえず……戻ったらすぐにミウ様に美味しいお茶を淹れて差し上げなくちゃ」
 神殿の部屋に一人でいるであろう主を思い浮かべるカヤの唇は、本人も知らぬうちに優しげな弧を描いていた。






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