馬車から降りた美雨はぐるりと辺りを見回し、それから目の前に立つ荘厳な神殿を眺めた。
 北のティスカ神殿も立派な建物であったがそれとはまた異なる雰囲気を持ち、所狭しと立ち並ぶ周囲の建物と一線を画するような広場の前にラターニア神殿はあった。
「やっと着きましたね。お疲れになりましたでしょう?」
 隣に並んだカヤが労わりの言葉をかけてきたが、美雨は首を振って答えた。
 最初に危惧していた通り、途中から天候がひどく崩れることが間々あった。順調に進んでいた足取りも少し遅れ、結局ラターニア神殿に着いたのは今し方、港街を出てから数えて九日後のことだった。
 その間、自分はただ馬車に揺られてこの神殿まで連れて来てもらっただけで、周りで護衛をしながら旅をしてきた彼らの方がよっぽど疲れているだろう。今もしとしとと降りしきる雨の中、手伝いに出てきた神官に指示を出している。
 自分の物くらいは自分で運びたいのだが、旅の初めの頃にきっぱりと断られてからは何となく手が出しにくく、美雨は手持無沙汰に傘の中から初めて見る街並みを眺めた。
 しかし、それもほんの僅かな時間で、先に神殿へ向かったマティアスが足元に水を跳ねさせながら戻って来た。
「待たせたね」
「いいえ」
 そう言って首を振ると彼は柔らかく目を細めた。その笑みに美雨は思わずドキリとし、パッと顔を逸らした。
 艶のある黒髪は濡れて更に色を濃くし、彼の青灰色の瞳を一層際立たせている。その様は普段とは比べ物にならない色香を放っているように思えた。
「どうかしたかい?」
「い、いえ。何でもないです」
 咄嗟のことで上手い言い訳も思いつかず、そんな言葉で誤魔化してみる。が、マティアスはそんな美雨の心境を全て見通したようにくすりと笑い、それから美雨の後ろに視線をやってから言った。
「それじゃあ行こうか」
 彼の視線につられて後ろを見れば、他の三人もこちらへ向かってくるところだった。
 二人の門番が彼らの姿を見て深々と礼を執り、それから重厚な扉を開く。入口をくぐり中に入ると、高い天井の大きな空間が目の前に広がった。奥には女神像があり、どうやら入ってすぐのこの場所は礼拝堂のようだ。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
 近付いてきた一人の神官が恭しく頭を下げ、それから手で奥を示して礼拝堂の中へ招き入れた。
「すぐに温かい湯を用意させますので、ひとまずはこちらでお拭き下さいませ」
 礼拝堂の中央まで来ると四神官とカヤにタオルが差し出され、それぞれが受け取る。カヤは受け取ったタオルで自分よりも先に美雨の濡れた頬を優しく拭った。
 驚いて体を引くと、カヤが眉を顰めた。
「ミウ様、きちんと拭かないとお風邪を召されます」
「カヤだって」
「私はあとでいいのです」
 軽く窘めるように言いながら、カヤは傘のお陰でそれほど濡れていないはずの美雨の服や髪も丁寧に拭っていった。それを見ていたマティアスがくすくすと笑い声を零す。
「さて、と」
 皆が拭き終わった頃合いでマティアスがつと神官の方を見やった。すると彼は胸に手を当てて再び頭を下げた。
「改めまして、私はこのラターニア神殿の神官長、トゥーレと申します。巫女様、お待ちしておりました」
「真山美雨です。お世話になります」
 それに倣って美雨も名を名乗り、頭を下げる。初対面の挨拶が終わると同時にマティアスが話を始めた。
「予定より少々遅くなりました」
「いえ、この雨では仕方ないでしょう」
「とりあえず巫女の衣を替えさせて頂きたいのですが、以前の部屋をお借りしても?」
「ええ、もちろんです。すぐに案内させましょう」
「ああ、案内は不要ですよ。私が連れて行きますので」
「左様ですか。では湯の用意が整いましたら使いを寄越します」
「ありがとうございます」
 すらすらと淀みなく交される二人の会話を聞きながら、美雨は内心で首を傾げた。
 神官長と四神官の上下関係がどうなっているのか詳しくは分からないが、北のティスカ神殿で見た限りではディオンがアウリに対して敬称で呼んでいたし、神官長の方が上なのだと思っていた。
 だが、ここでは反対のようにも見える。マティアスもトゥーレに敬語を使ってはいるのだが、何処となく彼の方が上に立っているように感じられたのだ。
 ディオンは幼い頃から神殿に仕えていたというし、そういった経緯の違いによってのことなのか、それともその神殿によって違うものなのか。そんなことを頭の隅で考える。
「ミウ、行くよ」
「はい」
 部屋に向かう途中、不意に彼が尋ねてきた。
「何か気になることがあった?」
「え……あ、いえ、何も…」
「そう?」
 マティアスはにこりと微笑み、それ以上尋ねることはしなかった。

―― 何でこの人は気付くんだろう…… ――

 まるで自分の考えていることが全て分かっているようだ、と美雨は思う。
 考え事をしている時、いつも彼は今みたく問うてきた。些細なことでも見逃さないというかのように、本当にふとしたことでも美雨が何か思う素振りを見せるとすぐに気付いた。
 彼の青灰色の瞳が時々怖く感じられるのは、自分の心の内側を読まれているように思えてしまうからかもしれない。
 そんなことを思いながら前を歩くマティアスの背中をじっと見つめていると、ひとつの扉の前で彼の足が止まった。おもむろにその扉を開け、美雨を振り返る。
「湯の用意が出来るまで、部屋で休んでおいで。体を冷やさないようにね」
「はい」
 美雨は頷き、そのまま少しだけ目を伏せた。青灰色の瞳がまだこちらを見ているのが分かる。
 一瞬、微かな笑い声が空気を揺らしたかと思うとその視線の気配がふと消え、またあとでね、と言い残してマティアス達は他の部屋に向かって行った。




 先ほど湯から上がったばかりでまだ火照っているのだろう、目の前の彼女の頬はほんのりと桜色に染まり、思わず手を触れたくなってしまう様相だ。
「しっかり温まったようだね」
 その欲求に従い、すっと伸ばした指先でその頬に触れれば、しっとりとした滑らかな感触が伝わってくる。びくりと体を引く様がまるで気を許さない猫のようで、思わず笑みが零れた。
 今後の予定を立てる為、これからトゥーレが待つ部屋へ向かう途中だ。美雨が湯に浸かっている間に四神官もそれぞれ着替えを済ませてある。
「いいかい?」
 美雨が頷くのを確認し、マティアスはノックをして扉を開けた。
 中には窓を背にして立つ二人の神官と、その中央の椅子に座するトゥーレの姿があった。彼は入室した美雨達に気付き、すくっと立ち上がった。
「どうぞ巫女様、こちらへお掛け下さい」
 トゥーレが自身の前に並んだ椅子を示す。マティアスは美雨を促して座らせた後、彼女の傍らに立ち並んだ。
「では早速ですが本題に入りましょう」
 そう言って始まった内容はほとんど北のティスカ神殿の時と同じだった。というよりもどの神殿に行ってもまず最初に説明されることは決まっている。美陽の時も含めればこれで六回目となる説明に若干うんざりするが、美雨にとってはまだ二つ目の神殿だ。
 ちらりと隣の彼女を見下ろせば、相変わらずの無表情で真面目に話を聞いている。それを見守りながらマティアスもまた話に意識を戻した。
「以上がこのラターニア神殿でのお勤めにございます」
 そう言ってトゥーレが話を終える。彼の話をまとめるとこういうことだ。
 ティスカ神殿の時と同じく、舞を舞うのは夜半の月が真上に上った時刻。そして日数も同じく七日間。その間の行動に制限はなく、自由にしていてよい。
「街に出て顔見世をした方がいいんでしょうか?」
 美雨が尋ねると、トゥーレは首を振った。
「本来ならばそうして頂きたいのですが、今はあまり外にお出にならないほうがよろしいかと」
 アウリの時とは正反対の答えに美雨は首を傾げたが、マティアスにはその意味がよく理解出来た。
 ここは王都のど真ん中、もちろん住民の数も今までとは比べ物にならないほど多い。一見、華やかな場所のように思えるが、その分貧富の差も激しく、闇を抱える人間も多くいる。
 これで美雨がただの巫女であれば問題なかったのだが、残念ながらそうではなく、彼女は "禁忌の双子" だ。しかもティスカ神殿の一件でそのことはすでに広く知れ渡っている。
 良からぬことを企む者がこの王都に潜んでいる可能性も十分にあるのだ。多くの人間がいる場所では護衛もしにくいのが現状で、万が一を考えるならばあまり外に出ないほうがいいのは確かだろう。
 しかし、土地との絆が深ければ深いほど、巫女の力は強くなるという。民との接点は多くあったほうがいいのもまた確かだ。マティアスは一瞬思案した。
「とりあえず一度私達で街の様子を見て、それからどうするか考えたいと思います」
 トゥーレの視線がゆっくりとこちらに向いた。彼は特に異論を唱えることもなく、分かりました、と言って頷いた。
「では他にご質問がなければこの辺りで終わりにしようかと」
「大丈夫、だと思います」
「何か気になることがございましたらいつでもお聞き下さい」
「はい」
 トゥーレと美雨のやり取りを眺めつつ、マティアスは話が終わったタイミングを見計らって立ち上がった。
「それじゃあ部屋に戻ろうか」
「はい」
 美雨の椅子の背に手を掛け、彼女が立ち上がるのと同時にそれを引いてやる。そのまま彼女の腰に手を添えようとした時、トゥーレに後ろから声がかけられた。
「マティアス様」
「何です?」
 手を止めて振り向くと、トゥーレは懐から何かを取り出し、こちらに差し出した。
「マティアス様に書簡が届いております」
「私に?」
「はい」
 マティアスは差し出された封筒を受け取り、くるりと裏返した。そこに書いてあった差出人の名に思わずため息が零れそうになったが、それを抑えて礼を述べた。
「ありがとうございます。確かに受け取りました」
 トゥーレが黙って軽く会釈をするのを横目で見ながら、懐に封筒をしまう。それから皆の方に向き直り、いつもの笑みを浮かべた。
「すまなかったね。行こうか」
 そう言って今度こそその場を離れた彼らはそれぞれ割り当てられた部屋に戻った。
 その夜、同室のレイリーが湯を借りる為に出て行き、誰もいなくなった部屋でマティアスは懐から先ほど受け取った手紙を取り出した。蝋で留めてある封を開け、折りたたまれた便箋を開いて目を通す。
 その内容に彼は嘲笑うような笑みを浮かべた。

―― まったく……ここは何ひとつ変わっていない… ――

 便箋と封筒をそのまま机の上に放り投げ、マティアスは脱力したように背もたれに身を倒した。軋む音が静かな部屋に響く。
「……本当に何も…」
 嫌になって捨ててきたはずのものが、未だにこの肩に圧し掛かる。どこまで行っても振り解けない。
 マティアスは深いため息を吐きながら天井を仰ぎ、気怠げに瞼を閉じた。






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