水の中に浮かんでいるような浮遊感。ふわふわとするその感覚は心許なくもあり、反対に心地良くもあった。
「……ル…」

―― 誰…… ――

 遠くで穏やかな声が聞こえる。聞いたことのない、けれど何故か安心するような声。
「……ハル…」
 その声が聞こえるたび、暗闇に取り込まれた美雨の意識が次第に戻り始める。それと同時に浮遊感も少しずつなくなり、代わりにひどく体が重くなっていった。
「ミハル」
 ぼんやりとして遠かった声がはっきりと聞こえた。
「ん……」
 ぐったりと横になっていた美雨は眉を寄せ、呻くように声を零した。
 どうやら気を失っていたようだが、朦朧としている頭では思考回路も上手く繋がらない。重たそうに瞼を上げてすぐ、暗闇に慣れていた美雨の瞳は眩しそうにすがめられた。手を付きながら気怠そうに体を起こし、鈍く痛む頭を押さえる。
 そしてようやく光に慣れてきたその目に映った光景に、美雨は呆然とした。
「……何……これ…」
 思わずそんな言葉が口から零れる。
 そこはがらんとした広い部屋の中だった。美雨は驚きに瞠目しながらも、ゆっくりとあたりを見回した。
 上を見上げれば丸みを帯びた天井が頭上高くそびえており、そして足元を見下ろせばそこには真っ白な花がまるでどこかから切り取ってきたみたいに咲き乱れていた。
 美雨がいたのはその花々の中心だった。
「………」
 もはや言葉も出てこない。瞬きすら忘れてただ前を見つめる。

―― これ……夢…? ――

 自分はまだ意識を失っていて夢を見ているのだろうか、と美雨は思った。いや、むしろ夢でなければ何だというのだろうか。目が覚めたら明らかに自分の家とは違う場所にいた、なんて非現実的なこと夢以外の何ものでもない。
 きっと明晰夢というものに違いない、と考え直して息を吐こうとしたとき、すぐ近くで声がした。
「ミハル」
 出かけた息は驚きに呑み込まれ、美雨はその声のほうを振り返った。いつからいたのか、司祭のような格好をした男が真後ろにいた。

―― 誰……? ――

 見知らぬ男のはずなのに彼のまとう雰囲気がやけに穏やかだったせいか、その存在に恐怖を感じることはなく、美雨はただ黙って彼を見つめた。
 片膝をついていた男は美雨の体を支えるように彼女の肩に手を添え、静かに口を開いた。
「大丈夫ですか?」
 静かな水面を思わせるような落ち着いた深みのある声。それは目を覚ます前におぼろげに聞いた声だった。
 頭の中はひどく混乱していたが、それでも現実感のないこの状況が逆に美雨に冷静さを保たせた。彼女はじっと彼を見つめ、その姿を目に映した。
 ランプの薄明かりに照らされた銀の髪に、月を思わせるような琥珀色の瞳。それがさらに美雨の現実味を無くす。
「………」
 絶対にありえない非現実的なこの光景。
 けれど、この時すでに美雨はこれが夢ではないことに薄々感づいていたのかもしれない。花の匂いや触れる感触、それに肩に置かれた彼の手の温度が夢ではないと思わざるを得ない程、リアルだったから。
「ミハル?どこか具合でも?」
 いつまでも返事をしない美雨に男はいぶかしげな瞳を向ける。その瞳をしっかりと見つめ返すと、美雨は恐る恐る口を開いた。
「……美陽…?」
 自分の声ではないような掠れた声が耳に届く。美雨の言葉に困ったように微笑むと、男は優しく諭すように答えた。
「あなた以外に誰がいるというのです、ミハル。皆、あなたが居なくなって心配しています」
 男は確かに "ミハル" と言った。聞き間違いではない。

―― どういうこと……? ――

 そしてこの顔を見てその名前を呼ぶということは、どういうわけか知らないが彼は自分を "美陽" と間違えているのだ。
「……あなた、美陽を知っているの?」
 美雨はさらに混乱する思考の中でなんとかそう尋ねる。
「何を言ってるんです、ミハルは」
「私は美陽じゃないわ」
 男の言葉を遮って美雨は端的にそう言った。
「……ミハルではない?ではあなたは……?」
 解せないと言わんばかりに眉をひそめる彼に向かって答えを口にする。
「私は美陽の……双子の姉です」
「双子の……姉?」
 驚きを含んだ声音でそう聞き返す男に向かって美雨は小さく頷いた。彼はそれを見ると顎に手を当てて考えるような仕草をした。
「何故、姉君がここへ?」
「……ここはどこで、どうしてあなたは美陽のことを知っているの?」
 美雨は男の質問には答えず矢継ぎ早に問い質した。だが彼もまたそれに答えることなく、彼女を落ち着かせるように微笑んだ。
「怪我や具合が悪くはありませんか?」
 頭は痛むが、この不可解な状況を先にどうにかしたい。美雨が小さく頷くと、男はゆっくりと彼女の手を引いて立ち上がった。それにつられるようにして美雨も立ち上がる。
「それでは少し場所を変えましょう。色々お伺いしたいこともありますし、詳しいことは神殿でお話しします」
 そう言って男は静かに歩き出した。美雨の体を気遣うようなゆったりとした歩みに、彼女は逆らうことなく手を引かれてその後をついて行った。




 部屋を出るとそこはどこかの中庭のようだった。その中を通り過ぎ連れて行かれたのは白く大きな建物で、精巧な彫刻が施された石柱はまるで教科書に載っていた古代ローマの神殿のようだ。
 美雨は圧巻ともいえるその光景を冷静な、どこかまだ現実味のない眼差しで見つめていた。
「こちらへ」
 男に促されて入ったのは落ち着いた深い色合いで統一されている部屋だった。
「座って待っていて下さい」
 そう言うなり男は美雨の手を離し、軽く頭を下げるときびすを返して部屋から出ていった。
 パタンと閉じられた扉の音を聞きながら美雨は部屋の中を見回した。中央にどっしりと構えているテーブルと椅子、美雨は言われた通りにそれに腰かけた。
 体がひどく重たい。頭もまだ鈍く痛んでいる。しかし美雨はふうっと息を吐くと、今までのことをなんとか整理しようと努めた。
 まずは一番重要なのはここがどこなのか、ということ。どうして部屋に居たはずの自分がいきなりこんな見知らぬ場所に居るのか、皆目見当もつかない。
 そしてもう一つ。どうしてあの男が美陽のことを知っていたのか、ということだ。

―― なんで美陽が…… ――

 分からないことだらけで余計に頭痛がひどくなる。美雨は顔を覆うようにしながらテーブルに肘をついた。
「……なんなのよ…」
 どうにもならない不安が小さく口から零れ落ちる。
 それでも唯一の救いは彼と言葉が通じたことだろう。今思い返しても明らかに日本人ではない容姿の彼と言葉が通じるとは思わなかった。
 しばらくの間、痛む頭を押さえながら俯いていた美雨だったが、手をずらして髪をかき上げると一旦考えるのを止めて視線を移した。そして窓に目を止めた彼女が立ち上がりかけたその時、ノックの音が届いた。
 再び椅子に座り直し、扉のほうを振り返る。その扉がゆっくりと開かれ、先ほどの男を先頭に四人の男たちが続いて入ってきた。
「お待たせしました。ミハ……」
 男は "ミハル" と呼びかけてすぐに口を噤んだ。名前を教えていないから訂正することも出来ず、彼はちらりと美雨を見るとそのまま沈黙した。
 美雨はその視線にも呼び間違えたことにも気付かないフリをして、まっすぐに前を見つめた。
「初めまして、お嬢さん。ワシは司祭のアヴァードじゃ。早速本題に入ろうかの」
 アヴァードと名乗ったのは大きなテーブルを挟んで向かい側に座った白髪の男だった。老人というにはまだ早そうな風貌だが、深海のような青い瞳は全てを知る賢者のように知性を湛えていた。
「そなたはミハルの姉君だと聞いておるが、間違いはないかの」
「はい」
 そう答える美雨にアヴァードは納得したようにゆっくりと頷いた。
「まことよく似ておる。名を聞いても?」
「……真山美雨です」
「マヤマ……ああ、そういえばそなたらの世界では民にも姓があるとミハルが言っておったな」

"そなたらの世界"

 その言葉を拾い、美雨は頭の中でいま起きているこの不可思議な事態を繋ぎ合わせた。
 弾き出された答えはあり得ないものではあったが、夢でないのならば考えられることはただ一つ。ここは自分がいた場所ではなく――――――異世界。
「ではミウ、と呼んでよいかの?」
 アヴァードの声にハッとして美雨は顔を上げ口を開いた。だがそれは彼の質問の答えではなく、違う言葉であった。
「ここは……違う世界……なんですか?それにどうして……美陽のことを知っているの?」
「そうじゃな。最初から説明するとしよう」
 そう言ってアヴァードは椅子から立ち上ると、美雨が行こうとしていた窓際に歩いていった。
「ここはラーグという世界。察している通り、ここはそなたが居た世界とは違うものじゃ」
 物語を読むように静かに語る彼の背中を見つめながら美雨は話の続きを待った。
「窓の外は見たかの?」
 アヴァードの問いに美雨が小さく首を振ると、彼はまるで小さい子に向かってやるように手招きをした。
「こちらへおいで、ミウ」
 美雨はその言葉に促されて立ち上がり、ゆっくりと彼のそばに歩いて行った。
「ご覧、これがそなたがここに来た理由じゃ」
 そう言ってアヴァードが指差した空を見て、美雨は言葉を失った。






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