朝になってベッドから体を起こす。硬くなった体を解すように美雨は腕を上げて思い切り伸びをすると、古い木枠のベッドがギシ、と鈍い音を立てた。
 久々に熟睡したお陰か、気分は大分すっきりしているようだ。ふう、と息を吐いて腕を下ろし、部屋の中を見回すと、隣のベッドではいつもなら自分より早く起きているはずのカヤがまだ眠っていた。
 船旅で彼女も相当疲れていたのだろう、と思いながら美雨は音を立てないようにそっとベッドから抜け出し、窓の方へ歩いて行った。壁の時計は六時を少し過ぎたところを示しているのに空は相変わらず暗く、夜と錯覚してしまいそうだ。
 窓を少しだけ開ければひんやりとした朝の空気が部屋の中へ入ってくる。
「……ん…」
 不意に後ろから声が聞こえ、振り返るとカヤが起き抜けの寝惚け眼を擦っているところだった。どうやら起こしてしまったらしい。
「ごめんなさい、寒かった?」
 美雨がすまなそうに声をかけると、彼女は一気に目が覚めたようで慌てて布団を跳ね除け、ベッドから転がり出てきた。
「も、申し訳ありません!ミウ様よりも遅く起きるなんて!」
「え?あ、少し早く目が覚めただけだから。まだ六時過ぎだし」
 そんなことで怒ったりするはずもないのだが、あまりにも狼狽える彼女の姿に美雨は内心で苦笑した。そこまで狼狽えられると逆にこちらが申し訳なくなってくる。
「けれど」
「でもちょうど良かった。着替えを手伝って貰いたかったの」
 食い下がってくるカヤの言葉を遮り、美雨は思いついたことを適当に口にした。本当は着替えなど自分一人で出来るのだが、こうでもしないと彼女はずっと謝り続けそうな勢いだったのだ。
 カヤは何かを言いかけたがそのまま口を閉じ、それからはい、と言ってようやくいつもの笑顔を見せた。着替えを手伝って貰いながら、今度からはカヤよりも遅く起きることにしよう、とこっそり思った美雨だった。
 それから少しのんびりと準備をして七時半を回った頃、美雨はカヤと一緒に食堂へと向かった。昨夜のうちに簡単に堂内を案内されていたので場所は大体分かっていたし、四神官が集まるのも大抵いつもこのくらいの時間だ。
 食堂に入ると案の定、そこにはすでに四人が揃っていた。入口の方を向いて席に着いていたマティアスが美雨に気付き、にこりと微笑む。
「おはよう」
「おはようございます」
「よく眠れたかな?」
「はい」
 頷きながら美雨が彼らのそばまで歩いて行くと、マティアスはおもむろに立ち上がり、それは良かった、と言いながら隣の椅子を引いた。相変わらず紳士的である。
「夕飯も食べていないからお腹が空いただろう?」
「そういえば……そうですね」
 昨夜、礼拝堂の案内をしてもらった後、少し休むつもりでベッドに横になったのだが、睡魔に負けていつの間にか眠ってしまったのだ。しかも、船旅や馬車移動で疲れが溜まっていたのか、朝まで一度も起きることなく昏々と寝ていたらしい。
「全員揃ったことだし、朝食にしよう」
 マティアスが近くにいた年若い神官に何かを言付けると、それほど時間も経たないうちにパンと少量のサラダが乗った皿と湯気の立ち上る温かなスープが目の前に運ばれてきた。
「では頂こうか」
 テーブルの上に朝食が全て並べられるとマティアスが誰にともなく言った。それを合図に皆は胸に手を当てて目を閉じる。日本人がいただきます、と言って両手を合わせるのとおそらく同じような意味合いだろう、美雨もそれに倣って祈りを捧げた。
 隣に座っていたマティアスが美雨の皿を取り、パンとサラダを盛って彼女の手元に置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 マティアスに給仕をさせてしまったようで何だか居た堪れないが、食べない理由もない。美雨は礼を言ってからパンを手に取り、一口分に千切って頬張った。それを食べたのとスープのいい香りが相俟って、空腹感が一気にやって来る。
「美味しい」
「たくさんお食べ」
 そう言ってレイリーが微笑む。美雨は少しだけ視線を外してこくりと頷き、黙々と口に運んで食事をきれいに平らげた。
 食後、四神官は机の上に地図を広げながら今後の進路や日程を再度確認し合っていた。詳しくは分からないなりにも美雨も一緒にそれを聞き、頭に入れておく。
「今後、天候が少し崩れるそうだ」
 少し席を離れたところでここの神官と話をしていたクートは戻って来るなり皆にそう言った。それを受けてマティアスが少し困ったように口元に手を当てる。
「ああ、もうそんな時期か」
 なんだろう、と首を傾げると後ろからカヤが小声で教えてくれた。
「この大陸は年間を通して気候は穏やかなのですが、この時季だけ雨が少し多くなるんです」
「へえ」
 移動は今までのように馬車と馬が主だ。天候がどの位影響を及ぼすのか分からないが、自動車でさえ雨の日は乗りにくいのだから、きっとかなり左右されるのだろう。
「少し時間はかかっても無理せず行くのが無難ですね」
「そうだな」
 レイリーの言葉に皆が同意し、そうこうしているうちに今後の方向が決まったようだ。
「それじゃあ九時になったら迎えに行くよ。雨が降らないうちに出発しよう」
「分かりました」
「それまではゆっくりしておいで」
「はい」
 話し合いを終えた彼らはそれぞれに準備に取り掛かり、カヤと共に部屋に戻った美雨はマティアスが迎えに来るまで、束の間の休息を取った。




 それから数日の間、朝に礼拝堂を出て、目的地への道をひたすら進み、夜になる前に最寄りの街の礼拝堂で宿を取る、というのを繰り返した。時折、大雨に当たって進むのを断念するときもあったが、それでも概ねは順調に進んでいた。
 最初の方こそ辺境の小さな町や村が続いたが、ラターニア神殿がある王都に近付くたび、街は少しずつ大きくなっており、この日の終着点である街もなかなか大きな街だった。
「お疲れ様。足元に気を付けてね」
 そう言ってマティアスが手を差し伸べ、美雨とカヤを馬車から降ろす。朝から雨が降っていた所為で地面は濡れ、所々に泥濘ぬかるみが出来ていた。
 白い服は汚れが目立つ。美雨は裾を摘まんで軽く持ち上げ、極力泥が跳ねないように注意を払いながら彼の後をついて行ったが、途中、泥濘に足を滑らせてバランスを崩した。
「あっ」
「ミウ様!」
 声を上げた瞬間、誰かの腕が美雨の体を支えた。
「……気を付けろ」
 ぼそりと機嫌の悪そうな声が真後ろから聞こえ、少し乱暴に肩を掴まれたかと思うとグイッと態勢を立て直された。振り向かなくても分かってはいたが、そこにいたのはやはりクートだった。
「あ、ありが……」
 礼を言い切る前に彼はそのまま背を向けて美雨の少し後ろに戻った。どうやら殿しんがりに控えていたようだ。
 取り付く島もないような彼の態度に言葉は行き場を失い、美雨は少しだけ俯いた。泥で汚れた裾が目に付く。
「大丈夫かい?足元に気を付けて、と言ったのに」
 そばでクスクスと笑う声が聞こえて顔を上げると、口元に笑みを浮かべたマティアスが立っていた。少し先を歩いていた彼も早々に転びかけた美雨を見兼ねて戻って来たのだろう。
「すみません」
「ゆっくりでいいよ。それとも抱き上げて行こうか?」
 彼の言葉は冗談なのか本気なのか、本当に分からない。困って辺りに視線を巡らせると、またしても愉快そうな笑い声が聞こえてきた。
「冗談だよ。さあ、行こう」
 そう言って今度は美雨の横に並んで歩き出す。抱かれた肩が気になったが、自分を気遣ったゆっくりとした歩調に気付き、美雨の抵抗する意思は消えていった。
「お待ちしておりました、巫女様」
 礼拝堂の扉をくぐると硬質な声が出迎えた。入り口からすぐのところにいたのはこの礼拝堂の神官長だろう。実年齢がどうかは知らないが今までの神官長と比べ、随分と若く見えた。
 ふと、彼の視線がマティアスの半歩後ろに居た美雨に移る。反射的に体を強張らせた美雨に、彼はにこりともせずに言った。
「お疲れでしょうからすぐにお部屋にご案内致します」
「……ありがとうございます」

―― まただ…… ――

 礼を言いながら美雨はこの大陸に着いてから時折感じていた違和感を再び覚え、ふとその正体に気付いた。
 王都に近付いていくにつれ、自分に向けられるあの視線が少なくなっているように感じたのだ。
 怯えた瞳を向けられるよりはいいに決まっているのだが、なんというか、受け入れられたというにはあまりにも淡白な感じがする。そう、まるで興味がないような、そんな雰囲気だ。
「ミウ、行くよ」
「あ、はい」
 そのことに気を取られてしまっていた美雨はマティアスの声にハッとし、慌てて彼らのあとを追った。
 神官長が案内がてら淡々とした調子で堂内の説明をする中、美雨はそれを聞きつつ周囲を観察し、先ほど覚えた違和感に確信を持った。すれ違う神官達のほとんどが美雨を見てもただ胸に手を当てて頭を下げるだけで、怯えたり訝しむような瞳は数えるほどだったからだ。
「どうかした?」
「いえ……」
 そう言って覗き込んできたマティアスに、美雨は曖昧な返事を返す。違和感を覚えたからといってそれがどうというわけでもないし、わざわざ言うほどのことでもないだろう。
「それではお食事の用意が出来ましたらまたお呼び致します」
 美雨達の泊まる部屋の前まで来ると神官長はそう言って軽く頭を下げ、そのまま踵を返していま来た廊下を戻って行った。その背を見送り、マティアスが皆の方を振り返る。
「それじゃあ、各自少しの間休もうか」
「そうだな。ミウ達も疲れただろう。休めるときに休んでおいたほうがいい」
 そう言ってディオンは部屋の中に荷物を運び込み、そのまま扉を押さえて美雨とカヤを室内へ促した。
「ありがとうございます」
「それじゃあミウ、またあとでね」
「はい」
 それから各々割り当てられた部屋に入り、ひと時の休息を取る。
 ベッドに腰掛けながらぼんやりとしていた美雨の頭の中に、先程の彼らの淡白な瞳が浮かび上がっては消えていった。






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