未だに頭の中は幕が一枚張っているみたいにぼんやりとしているが、船の上での生活もようやく少し慣れた。気分転換に甲板に出た美雨の髪を冷たい海風が横になびき、それを片手で押さえながら彼女はふう、と小さく息を吐いた。
 この船の出航と同時にそばに控える神官はマティアスに代わり、それまで一番近くにいたディオンとの距離は遠くなった。確かにディオンがそばに居た時も他の神官との接点は少なかったように思うが、それと同じように彼と話す機会も一気に減った。
 しかし、美雨はディオンと離れたことに内心、安堵していた。彼が言ってくれた言葉に戸惑うばかりで答えられもしないくせに、なんてことない顔でそばにいる事など出来ない。

―― どうしてかな…… ――

 美雨は胸元のマントを力無く握り、思った。
 ラーグに来てからというもの、やけに心が揺れている気がする。様々なことが美雨の心を波立たせ、自分でも驚くほど感情的になってしまう。
 ずっと一人きりでいるのが当たり前だった。だから、誰かがいつもそばにいるという今の状況に慣れていないだけだ、と自分に言い聞かせてみるが、胸の中の靄は消えない。
 はっきりとしない頭でそんなことを考えながらぼんやりと海を眺めていると、何の前触れもなく突然後ろから抱きすくめられた。
「っ!」
 驚きに一瞬、息が止まる。
「こんな所にずっといたら風邪引くよ」
 耳元で聞こえてきたのは良く知った声。それに安堵し、美雨は止めていた息を吐いた。
 そろりと顔だけ振り向かせるとそこには案の定、マティアスが妖艶ともいえる笑みを浮かべて立っていた。大体、唐突にこんなことをするのはこの人くらいなものだ。
「は、放して下さい」
「駄目。こんなに冷たくなってるじゃないか」
 北の大陸から離れたとはいえ、まだ海上の風は冷たい。彼の言う通り、かなり体は冷えていた。
 だが、そうはいってもこんな体勢でいるのは気が落ち着かない。抜け出そうと試みるも少し押したくらいでは離れてくれず、いくらマティアスが細身でもやはり男の力には敵わないということを思い知っただけだ。
 抜け出すことを諦めて大人しくすると、マティアスが問うてきた。
「何か考え事?」
「いえ……ただの気分転換です」
「そう?」
 含みのある言い方に美雨が振り向くと、彼はくすりと笑ってこう答えた。
「君がぼんやりしている時は大体何か考え事をしているから」
「………」
 自分でも気付いていない癖を指摘され、美雨は黙って少し顔を伏せた。
 不意にその頬にマティアスの手が触れる。反射的に身を引いたが、彼の腕に背中をぶつけただけで逃げ場はなかった。
「頬が林檎のようだ」
 彼の指がすっと頬を撫で、その感触に美雨は思わずぞくりとした。冷気に晒された頬は確かに赤くなっているのだろうが、それとは違った朱も走る。
「カヤが温かいお茶を淹れて待っているよ。そろそろ部屋に戻らないかい?」
「そう、ですね」
 微妙なこの雰囲気をどうにかしたくて適当に相槌を打つと、マティアスの手がすっと腰に回された。
「よし、それじゃあ戻ろうか」
 にこりと笑んだ青灰色の瞳に、美雨は曖昧な表情を返す。
 令嬢をエスコートするような仕草は彼にとても似合っているが、その対象が自分というのが慣れなくてどうしようもない。壊れ物のように扱っていたディオンとはまるで違う。
 決してマティアスが丁寧ではないというわけではなく、むしろとても優しい。ただ、元々人との触れ合いに慣れていない美雨にはより戸惑ってしまうのだ。大体、ハリウッド映画のようなエスコートに慣れている日本人の方が珍しいのでは、と思う。
 腰に回された手が外れないかと少し身をずらすも、いつもの彼の笑みが向けられてお終いだ。そんなことをしている間に部屋に辿り着いてしまった。
「まあ、ミウ様!頬が真っ赤ですわ!」
 部屋に入るとすぐにカヤが飛んで来てテーブルの所まで引っ張って来られた。
「いま淹れたばかりですから。早くお身体を温めて下さいませ」
「ありがとう」
 彼女の勢いに呆気にとられながらも、美雨は用意されたお茶を口に運んだ。
「兄様も召し上がります?」
「いや、私はいいよ。女性同士でゆっくりしなさい」
 美雨がカップを傾けながら、親しげに会話を交わすマティアスとカヤをちらりと見ると、不意に彼と視線がぶつかった。彼はにこりと微笑み、そのまま部屋を出て行く。
「お加減はいかがですか?」
「うん、大分良くなったと思う」
 カップを包むようにして持って手を温めながら答えると、心配そうにしていたカヤの表情がホッと和らいだ。
「でも無理はいけませんからね。また少し横になって休んで下さいませ」
 ずっと横になっているのも退屈だが、字の勉強をしようにも本を開くと酔いがひどくなるので船の上では少々厳しい。カヤの言う通り、大人しくしているのが一番迷惑を掛けないだろう。
「うん」
 素直に頷き、美雨は残りのお茶をゆっくりと飲み干した。




 久方振りの大地の感触に美雨はホッと安堵の息を吐く。まだゆらゆらと揺れているように感じるが、しっかりと地に足が着いているだけで安心する。
「今日はこの街で一晩宿を取るよ」
 船を下りてすぐ、マティアスが言った。
「先に進まなくていいんですか?」
「今回の船旅はちょっと長かったからね。一度疲れをしっかり取った方が今後に響かないだろう」
「あの、私なら大丈…」
 旅慣れない自分に気遣っているのだと気付き、大丈夫です、と言おうと思った美雨の唇をマティアスの長い指が止めた。
「無理は禁物。それに私も少し休みたいしね」
 にこりと笑みを浮かべてマティアスが言った。彼の笑みは優しいのに何処となく反論を許さないような、そんな力を持っている。
「………」
「さあ、そうと決まれば礼拝堂まで移動しようか。もう少しだけ頑張って」
「はい」
 マティアスに促されて馬車へと乗り込んだ美雨は、目の前に座る見目美しい男をちらりと見やった。
 そう見せているだけなのかもしれないが、疲れている様子は窺えない。さっきああ言ったのはやはり自分の為で、気に病まないように言ってくれたのだろう、と美雨は思う。
「出発していいか?」
「ああ」
 御者席からクートの声が聞こえ、マティアスが答えると馬車はゆっくりと動き出した。
「それにしても都に行くのも久しぶりですわ」
 しばらくの間、流れていく外の景色を眺めていたカヤだったが、少しウキウキとした様子で振り返り、マティアスに話しかけた。
「おや、そうなのかい?」
「お母様が心配してあまり遠出をさせて下さらないの」
「ははっ、姉さんらしいな。可愛い娘が心配で堪らないんだろう」
「もう子供ではないのに。兄様からも口添えして下さいな」
 叔父と姪という間柄、他の四神官よりもやはり気心が知れているのだろう、カヤはいつもより砕けた口調で話している。和やかな会話が続く中、美雨は少し首を傾げた。

―― 都……? ――

「ああ、ミウは知らなかったよね」
 その微かな仕草で気付いたのか、マティアスが口には出していないはずの疑問に答えた。
「これから向かう東のラターニア神殿はラーグで一番の大国、ルトウェルの首都にあるんだ」
「ルトウェル……」
 その地名に聞き覚えがあった。頭の隅で記憶を手繰り寄せ、ふと思い当たった言葉をぽつりと零す。
「あ、マティアスの出身国」
「おや、知っていてくれたとは光栄だね」
「アヴァード様から聞いていたので」
「それでも嬉しいな。君が少しでも興味を持ってくれたということだろう?」
 満足そうににこりと微笑むマティアスに、美雨は返事に困って窓の外を見るフリをして目を逸らし、話題を変えた。
「あの、ルトウェルまではどのくらいで着くんですか?」
「そうだな、今日を除いて七日くらい、かな。ルトウェルの都はこの広大な東の大地のほぼ中央に位置しているからね」
「そうなんですか」
「だから今日はゆっくり休んで、明日からまた始まる旅を乗り切らないとね」
 確かに船の上ではずっと寝込んでいたから体力も少し落ちている。休める時に休まず、後々になってから何かあっては元も子もない。
「はい」
「いい子だ」
 やはり口癖なのだろうか、マティアスがまた言った。

"美雨ちゃんはいい子ね"

 不意に脳裏に浮かんだ言葉。それは幼い頃、大人達からよく言われたものだった。
「………」
「どうかしたかい?」
「あ、いえ、何でもありません」
 急に黙り込んだ美雨を怪訝に思ったマティアスが顔を覗き込んだ。美雨は慌てて首を振り、同時に頭の中に浮かんだ言葉を振り払う。どうして今更そんなことを思い出したのか、自分でも不思議だ。
「もう少しで着くよ」
 そんなことを考えながらぼんやりしていた美雨はその言葉に顔を上げ、暗闇が濃くなってきた窓の外を見る。少し遠くに礼拝堂らしき建物が街灯の灯りでぼんやりと浮かび上がっているのが見えた。
 新しい場所へ行くたびに向けられるあの視線のことを思うと気が重いが、それよりも今はゆっくりと休みたい欲求の方が勝っている。
 これから始まるこの大陸での旅を思い、美雨は空の闇を見上げた。






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