翌日、シーリアを発った一行は二日ほど各町の礼拝堂で宿を取りつつ、次の大陸へ向かう船が出ている港を目指していた。
「ミウ様、港が見えてきましたよ」
 明るく元気なカヤの声に釣られ、美雨が窓の外に目を向ける。いつもと変わらぬ表情の彼女をディオンはじっと見つめた。
 華奢な体を捩って己の腕から抜け出そうともがく姿も、ぎゅっと眉根を寄せて泣くのを我慢しているような顔も、今の彼女からは想像がつかない。だが、しっかりと脳裏に焼き付いているそれらの記憶は間違いではない。
 あの時、言葉か態度かは分からないが、自分の言動が彼女の何かに触れた。
 その所為であんな顔をさせてしまった、と後悔する自分の他にもう一人、喜んでいる自分がいた。我ながら子供じみていると呆れてしまうが、まだ誰も見たことがないであろう彼女の一面を自分だけが知っているということに優越感を覚えたのだ。
 あの瞳を見てしまえば自制心など何の役にも立たず、気付けば彼女の唇を奪い、息もつかぬほど重ね合わせていた。
 柔らかく、甘やかな唇。そこから漏れる吐息。手を出してはいけないと分かっていても止めることは出来ず、改めて美雨の存在が己の中でどれほど大きくなっていたのかを自覚させられた。
 ディオンは膝の上に置いていた拳にグッと力を込め、息を吐いた。
「ミウ」
 ディオンが呼ぶと、美雨は静かにこちらに顔を向けた。
 あと数分でこの馬車は港へ着く。そこで次の大陸から選ばれた四神官に代わることになり、こうして彼女の一番そばに居られるのは少なくなる。その前に伝えておきたいことがあった。
「先日のことだが」
 そう切り出した瞬間、彼女の肩が震えたように見えた。変わらないように見えていてもやはり警戒されているのだろうか。
「本当なら謝るべきなんだろうが、あれが俺の本心だ。謝ることは出来ない」
「………」
「すぐに答えなくていい。だが、あの場の勢いで言ったわけじゃないということは覚えておいてくれ」
 少しだけ視線を下げた美雨が躊躇いながら頷く。それだけで少し満たされた気がした。
「それと、港に着いたら隣に並ぶのはマティアスに代わるが、何かあれば俺にも頼って欲しい」
「……はい」
 律儀に答える美雨を見ながら、ディオンは内心で自嘲した。
 あれほど近くにいたのにもかかわらず、彼女が頼ってきたことなどこれまで一度もない。だからこれはこれから先はそうであって欲しい、という半ば願いに近いものだった。
 そして馬車は次第に速度を落とし、ゆっくりと停車する。ディオンが外に出るとマティアスがこちらに向かって来た。
「ここからは私が引き継ぐよ」
「ああ」
 端的な返事をするとディオンは馬車の中に手を差し伸べた。こうして彼女を降ろすのももうしばらくはないだろう。
「ありがとうございます」
 そう言って美雨の手がするりと離れていく。無意識のうちに動いた己の指が名残惜しげに彼女のそれを掴まえると、少し驚いたような瞳がこちらを向いた。
 ディオンはその瞳を真っ直ぐに見つめたまま、白く滑らかな手の甲にそっと唇を押し当てた。
「我が誓いと共に」

―― 俺は必ずあなたを…… ――

 改めて心に誓いを立て、ディオンは繋いでいた手を離した。
「マティアス、頼んだ」
 振り返ることなく、少し後ろに控えていたマティアスに声をかける。
「ああ。それじゃあミウ、行こうか」
 彼はそう言って美雨の肩に手を添え、停泊している船に向かった。歩き出す直前、美雨の瞳が真っ直ぐにディオンを見つめ返し、それからすっと伏せられた。
 マティアスと共に歩き出した彼女の後ろ姿を見やり、一拍遅れてディオンもまた彼らの後をついて行った。




 数週間振りの船旅は美雨にとってなかなか辛いものだった。この近辺の海流はやや荒いらしく、前回以上の船酔いにベッドから起き上がることが出来なくなってしまったのだ。
「ミウの様子はどう?」
 朦朧としている頭にマティアスの声が聞こえたが、美雨はベッドに沈んだままだ。レイリーから貰った薬で少しはマシになったが、まだ起き上がれるほど回復していない。
「まだ随分お辛そうです」
「そう、可哀想に」
 元々慣れているのか、それともただそういう体質なのか、一行の中で美雨以外に船酔いに陥るメンバーは居ない。羨ましいな、などと思いながら美雨は目を閉じたまま、彼らの会話を聞くともなしに聞いていた。
 ふと、額にひんやりとしたものが触れた。
「私が代わりに見ているからカヤは少し休んでおいで」
「でも……」
「君が疲れた様子で居ればミウが起きた時、気に病むだろう」
 マティアスが付け加えると、それまで躊躇っていたカヤもそうですね、と言って承諾した。
「じゃあ兄様、少しの間お願いします」
 ガチャ、と扉の開閉する音のあと、部屋は船が揺れて軋む音以外、聞こえなくなった。
 額に置かれていたものがゆっくりと髪を撫でる。どうやらマティアスの手だったようで、それは何度も何度も梳くように髪を撫でていく。吐き気すらする最悪な気分なのに、冷たいこの手に撫でられていると少しだけ楽になったような気がした。
「……いい子だ」
 口癖なのか、彼はよくそう言っていた。
 年齢を聞いたことはなかったが、カヤが姪だというのだから自分とは大分歳が離れているのだと思う。彼から見たら自分はさぞ子供に見えているのだろう。
 ゆっくりと呼吸に合わせるように髪を梳く手が心地良く、美雨の意識は眠りの中へ落ちていく。薄れていく意識の中で美雨は違う手のひらを思い出していた。
 マティアスのひんやりとした手とは違う、温かく大きな手。人々の罵倒から守り、感じていた不安を包むようにしてくれた、彼の手。
 ぶっきら棒で口数も少なく、決して愛想がいいとは言えないが、それでも彼がそばにいると安心出来た。兄が居たらこんな感じなのだろうか、と思うこともあった。
 だけどあの時、美雨はどうしても答えることが出来なかった。

"あなたのそばにいる権利を俺にくれないか"

 そう言ったあの真っ直ぐな瞳が、こんな自分のことを綺麗なものだと信じて疑わない彼の眼差しが怖かった。自分のあざとさを見透かされてしまいそうで怖かった。
 だけど、何よりもその言葉が怖かった。
 きっといつか彼らもいなくなる。いつだって最後には皆、離れていったのだから。
 それならもう、これ以上――――――そばに来ないで。




 滑らかな黒髪に手を滑らせているうちに、美雨の小さな寝息が聞こえてきた。
「おや、眠ってしまった」
 マティアスはクスリと笑みを浮かべた。美雨が起きていたのは始めから気付いていた。目を開けるのもしんどいのだろう、と思いそのままにしていたが、なんだか狸寝入りをしているようで可笑しかったのだ。
 それから笑みを収めると彼女の寝顔をまじまじと見つめた。
 実際、慣れない環境でよくやっていると思う。一切弱音を吐かず、懸命に役割を果たそうとしている姿は実に健気だ。しかし、彼女の負担は予想していたよりもはるかに大きく、このまま誰にも頼ることをせずにいればいつか必ずガタがくる。
「どうしてそれほど人を入れないのだろうね」
 髪の一房をするりと梳きながら、眠る美雨に尋ねるように言った。
 先日のディオンの件で美雨が彼の抱えていた孤独と悲しみを自分に重ね合わせていたのだろうということは分かった。だが、それだけでは彼女の心を知るにはまだ足りな過ぎる。
 言いたくないのなら無理には聞かない、と言ったものの、少し強引にでもいかないと彼女は絶対に言わないだろういうことも容易に想像がついた。
 目の前で無防備な寝姿を晒している彼女は普段の大人びた表情とは違い、年相応かそれ以下に見えるほどあどけない。その顔を縁どっている自分と同じ、しかしそれよりも少し明るめの黒髪をマティアスはくるくると指に絡めて弄んだ。

―― さて、どうしようかな ――

 マティアスはその整った口元に笑みを浮かべた。まるで楽しそうな玩具を見つけた子供のような悪戯な笑みだった。
 それからしばらく美雨の額に冷たいタオルを乗せてあげたりと甲斐甲斐しく世話を焼いていると、ノックの音が聞こえ、カヤが戻って来た。
「少しは休めたかい?」
「はい、ありがとうございました」
 そう言って頭を下げる姪を見て、マティアスが満足そうに頷く。
「深く眠っているみたいだから、次に起きた時は大分楽になっているんじゃないかな」
「それならいいのですけど……」
 少し言い淀み、カヤがちらりとマティアスを見上げた。
「ん?」
「あの、兄様」
「何だい?」
「ミウ様……シーリアへ行った翌日あたりから何だか元気がないように見えて」
 カヤはそう言って心配そうに美雨を見やり、それから再びマティアスに視線を戻した。
「元気がないというか、また少し遠くなってしまわれたように思えるの」
 よく見ている、とマティアスは感心した。普段から彼女のことをよく見ていないと気付かないほど小さな変化のはずだが、カヤは些細なことからそれを敏感に感じ取っていたのだろう。
「そうだね。私もそう思う」
「………」
「カヤ」
 目に見えてしょんぼりと肩を落としている彼女が情けない顔でこちらに向き直る。
「君が変わらずにそばに居ることがミウにとってきっと助けになる。だからそんな顔しないで」
「……私が、ミウ様の…?」
「そうだよ」
 にこりと笑みを向けると、彼女もようやく表情を緩ませた。
「まずはミウの具合が良くなることが先決だ。頼んだよ」
「はい」
 そう言ってカヤの肩にぽんと手を置き、マティアスは看病を任せて部屋を後にした。






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