「兄さん、来てくれてありがとう」
 ディーニの言葉にディオンはゆっくりと首を振った。ずっと心に燻っていたものが消え、晴れ晴れとした気分だった。
「父さんにも会っていければと思ったんだけど」
「これ以上遅くなると闇が深くなるからな。それにあまりミウの側を離れるわけにもいかない。また今度、改めて来る」
「そっか。待ってるよ」
 ああ、と短く答え、ディオンは柵に括り付けておいた手綱を解いた。
「あ、兄さん」
「何だ?」
「巫女様にお礼を伝えておいて」
「ミウに?」
「うん」
 ディーニが美雨に礼を言うことといえば一つしか思い浮かばない。ディオンは少し目を眇めてディーニを見やった。
「……やはりお前がミウに何か言ったのか」
 そう言ってため息を吐くと、ディーニは悪戯が見つかった子供のように肩を竦めた。
「初めてお会いした時は巫女様にお願いしたよ。兄さんに会わせて欲しいって。でも今回は違う。兄さんを故郷に連れて行くって、巫女様がご自分から言って下さったんだ」
「………」
 ディオンの脳裏にあの時の美雨の姿が蘇る。普段はあんなにも冷静な彼女が見せた、泣き出しそうな子供みたいな顔。
 思わずそちらに意識を奪われそうになったが、ディーニの声で引き戻される。
「巫女様が居なければきっと兄さんは二度とここへ戻ることはなかった。だからやっぱり巫女様にお礼を伝えて欲しいんだ」
 そう言ってディーニは穏やかに笑んだ。ディオンもふっと軽く息を吐き、頷いた。
「分かった。伝えておく」
「うん」
 おもむろにディオンは素直に頷く弟の頭をクシャリと撫でた。
「な、何?」
 驚いたディーニが頭に手をやろうとしたが、それより早くディオンが言った。
「……この間はすまなかったな」
 その言葉にディーニの手がぴたりと止まった。丸くなっていた彼の瞳が細くなり、満面の笑みへと変わる。
 ディオンの目には幼い頃の面影がその笑顔に見て取れた。それはこんな自分にも懐いてくれていた、歳の離れた小さな弟の姿だった。
 もう一度頭を撫で、ディオンも柔らかな笑みを返した。
「じゃあな。父さんと母さんを頼む」
「うん」
 ディオンは馬の背に乗ると、そのまま腹を蹴って出発した。大きく手を振って見送るディーニに軽く手を上げて返し、前を見据えた。
 来る時はあんなにも重かった心が今は嘘のように軽い。そして軽くなったその中に、美雨の姿があった。
 必死になって説得してくれた美雨。もちろんディーニが諦めずに何度も来てくれたお陰でもあるが、それでも最後に自分を動かしたのはやはり彼女だ。
 美雨が居なければきっとここへ戻ることはなかっただろうし、互いの想いに気付くこともなく、母は罪の意識を抱えたまま、そして自分は孤独を抱えたまま、永劫の別れを迎えていたはずだ。
 彼女はそんな結末を変えてくれた。
 ディオンにとって美雨は巫女となるべくして異世界からやって来た娘であり、神官として護るべき存在、ただそれだけのはずだった。
 それなのに今、こんなにも彼女に会いたいと思っている自分が居る。一分でも一秒でも早く彼女の元に戻りたい。
 彼女の周りに張り巡らされた、手を伸ばすことも躊躇われるほどの高い壁。その内に彼女が抱えているものが何なのかは分からないし、それを知る日が来るのかもわからない。
 だけどそれを分けて貰えるのならいくらでも抱えてやりたい、と思った。今度は自分が彼女を救ってやりたい、と。
 そして、美雨が心から笑った顔が見たいと思った。

―― ミウ…… ――

 彼女を想う度、その気持ちは大きくなる。
 ディオンは手綱を握り直すと速度を上げて駆け出した。




 部屋にノックの音が飛び込んできたのは夕方を少し過ぎた頃だった。美雨はカヤが扉を開けるのを机に向かったままの姿勢で見やる。
「ミウ様、ディオン様が呼ばれていますよ」
「……うん」
 二言三言、言葉を交わした後、カヤがすぐに戻って来てそう言った。
 美雨は部屋の入口まで歩いて行き、そこに立っていた背の高い男を見上げた。その表情は何処かすっきりしているようにも見え、また逆に何かを思っているようにも見えた。
「お帰り、なさい」
「遅くなってすまなかった」
「いえ……」
 彼と彼の家族はどうなったのか、ものすごく気になっているクセに、自分から聞き出す勇気が持てずにただ黙り込む。すると、不意にディオンの大きな手が美雨の手を取った。
「ミウ、少し歩かないか?」
 少し驚く美雨に彼はふっと笑って言葉を続けた。
「マントを持っておいで。外はかなり冷え込んでいるから」
 言われた通りにカヤからマントを貰って戻ると再びその手を引かれ、ディオンはそのまま何処へともなく歩き出した。
 外はもう暗闇が濃くなっており、ランプを持っていない足元はひどく覚束無い。だがそれを分かっているのだろう、ディオンはゆっくりと歩いてくれた。
 川の流れる音が遠くに聞こえ、二人の間には静かな空気が流れる。吐いた息は冷えた暗闇の中で白くなって消えていく。
 横目でちらりと見やると、ディオンの足がぴたりと止まった。
「……ディーニが礼を言っていた」
「え?」
「あなたのお陰だ、と」
「私は……何も」
 美雨は少し視線をずらし、そう答えた。
「いや、ミウのお陰だ」
 ディオンの低めの声がはっきりとそれを否定した。
「ありがとう、本当に感謝している。あの時、ああ言ってくれなければ俺は会いになど行かなかった。そしてあなたが言った通り、いつか必ず後悔していた」
「………」
「幼い時以来、会っていないといったのは半分嘘だ」
 唐突な告白に美雨は視線を彼に戻した。
「神殿に預けられて二年ほど経った頃だったか……俺は一度神殿を抜け出したことがあった。どうしても母に、家族に会いたくて、一人で家まで戻ったんだ。でもそこで見たのは少し大きくなった弟と幸せそうに笑っている両親の姿だった」
「………」
「そこにはもう俺が入る場所はないように思えた。だから俺は神殿に逃げ戻った。それからは家のことは頭の中から追いやって、ひたすら修行に身をやつした。脇目も振らず、ただひたすらに」
 そこで言葉を区切り、ディオンは優しい瞳を美雨に向けた。
「だけど今日、母を目の前にして俺は悲しさも憎しみも感じなかった。ただ懐かしいと思った。いま会うことがなければ、話すことをしなければ、きっとこの先も自分は必要とされていたのだと知ることはなかっただろう」
 一人ではなかったことを知ったディオンの心にはもう暗い影はない。真っ直ぐなその瞳から逸らすように視線を下げようとした刹那、美雨の頬にディオンの手が触れた。
「ミウ、俺はあなたに救われた」
 翠の瞳に捕らえられ、美雨は動けないまま彼を見つめ返す。
「あなたが抱えているものが何なのか、俺には分からない。だけどそれを支えてやることは出来ると思っている」
「………」
 ディオンの腕がゆっくりと回され、優しく彼女の体を引き寄せた。そしてその耳元で彼は静かに言った。
「俺はあなたの力になりたい」
 ディオンの強く優しい腕と真っ直ぐな言葉に、美雨はただ声を失った。

―― やめて…… ――

 彼の瞳が後悔に悲しく歪むのを見たくないと思ったのは確かだ。だが、会いに行って、と言った本当の理由はディオンの為なんかじゃなかった。
 羨ましかったのだ。
 二度と会うことも出来ず、会いたいと思ってくれているのかさえ分からない自分と、会いたいと願ってくれる家族がいるディオンを比べ、そして会おうと思えばいつでも会える場所にいる彼がとても羨ましかった。
 元の世界に居た時は会いに行こうなんて思わなかったし、むしろ彼等を避けて過ごしていたのに、もう二度と会うことが出来なくなってしまったこの状況になってやっと自分の気持ちに気付いた。
 本当は会いたかった。
 だけどもう、会うことはきっとない。
 だから、自分は必要じゃないのだ、と言っていた彼を、自分と似たような想いを抱えていた彼を利用して、自分の感情を昇華させようとしたのだ。
 ディオンが無事に両親と和解出来たならきっと自分も救われる。必要とされていなかったわけじゃない、と思いたかった。
「ミウ」
 黙り込んだ美雨を深緑の瞳が覗き込む。その目に捕らえられ、美雨はびくりと肩を震わせた。
 深く澄んだ水の底。いつか祝詞で言った通りの綺麗な彼の瞳が、己のあざとさをまざまざと浮き彫りにさせる。
「……ぃ…や…」
 自分にも聞こえないほどの小さな拒絶の言葉と共に、美雨は身を捩り、必死になって彼の腕の中から出ようとした。が、彼の力に敵うわけもなく、抵抗は無駄に終わった。
 いま自分がどんな顔をしているのか分からないが、きっと醜く歪んだ目をしているのだろう。顔を上げた自分を見たディオンが驚いたように息を呑んだ。
「どうして……あなたは…」
 呟くような言葉の後の一瞬だった。
「……っ…」
 気付けばディオンの唇が美雨のそれを掠めていた。驚いた隙を狙ったようにさらに深く口付けられる。
「…っ……ん…」
「ミウ」
 ゆっくりと唇が離れ、息を乱したまま呆然としている美雨に、熱の籠った瞳が向けられた。
「あなたを守りたい」
「………」
「あなたのそばにいる権利を俺にくれないか」
 唐突過ぎる言葉は美雨に答えることを躊躇わせ、彼女はそのまま瞳を伏せた。その瞼の上にディオンの柔らかな口付けが降ってくる。
 答えることも、逃げ出すことも出来ず、美雨はただ彼の温かな腕の中に身を任せていた。






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