「ミウ、大丈夫かい?」
 少し遅めの朝食をとった後、椅子に座ったままぼんやりしているところにマティアスに不意に顔を覗き込まれ、美雨は弾かれるようにして少し後ろに下がった。
「疲れた顔をしているね。あれからあまり眠れなかった?」
「………」
「少し叱り過ぎてしまったかな」
 苦笑を浮かべるマティアスに、美雨は力なくかぶりを振った。あれは自分が悪いのだから叱られて当然だし、それに眠れなかったのには別の理由もある。
「ちょっと考え事をしてしまって」
「そう」
 何を、とは聞かず、マティアスはただ優しく目を細める。その彼がふと、思い立ったように言った。
「そうだ、今日は少しゆっくりしようか」
「え?」
 美雨が首を傾げると、彼はにこりと笑って言葉を続けた。
「ゼノフィーダ神殿を出てから動きっぱなしだったからね。たまには休息も必要だよ」
「そうですね。街の中もほとんど回ってしまいましたし」
「………」
 レイリーが話に入り、賛同を示す。クートは相変わらず黙り込んでいるが、異論ないようだった。
「え、あの」
「よし、決定だね。しっかりと体を休めるのも大切な仕事だよ」
 戸惑う美雨の言葉を遮り、マティアスは穏やかに且つ有無を言わない口調でそう言った。ちらりと横を見やるとレイリーににっこりと微笑まれた。
「あとで薬湯を淹れて持っていきますね」
 もはや決定事項のようだと悟り、まだ少し躊躇いが残りつつも美雨は首を縦に振った。
「それじゃあミウ様、お部屋でゆっくりしましょうか」
 カヤに促されて部屋に戻ったはいいが、予定が無くなり手持無沙汰になった美雨は机の上に本を開いた。ここ数日、本を開く暇はなかったからこの時間を有効に使おうと思ったのだ。
 だが、未だに慣れない文字をいくら追っても途中で気が逸れて頭に入って来ない。諦めのため息をひとつ吐いて本を閉じた頃、レイリーが約束通り薬湯を持ってやって来た。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 手渡された器からはほわりと湯気が立ち、独特の香りがした。少し苦みのあるそれを少しずつ飲んでいると彼が口を開いた。
「マティアスのお説教は大変だったでしょう。声を荒げない分、余計に怖いんですよね」
 そう言ってレイリーはくすくすと笑った。
「……本当にすみませんでした。迷惑をかけてしまって…」
「いいんですよ、そんなに気にしなくて。一人になりたい時は誰にだってありますから」
 柔らかな彼の微笑みに少しだけ気が楽になる。
 そのまま黙って薬湯を飲んでいた美雨だったが、聞いてみようか、と思い立ち、器から口を離すとおずおずと問うた。
「あの……今日、ディオンは…?」
 いつもなら常に傍に付いてくれているのに、今日は一度も彼の姿を見ていない。昨夜の一件のこともあり、それがとても気になっていた。
「彼はいまアウリ様とお話をしています。あとで呼んできましょうか?」
「あ、いえ……いいです」
 別にこれといって用があるわけではない。美雨は視線だけを下げてそう答えると、薬湯の入った器をじっと見つめながら昨夜のことを思い出した。
 会いに行くつもりはない、と言っていた彼の表情はいつもと変わりなかった。むしろ、冷たくすら感じられる表情だった。それなのに美雨には何故かひどく苦しそうに見えた。
 まるで自分の心を偽っているかのように。

―― だけど…… ――

 昨夜のディオンの態度から見て、あれはきっと彼にとって一番触れて欲しくない部分なのだろう。それならば何も知らない自分が口を出していいはずがない。
「ミウは優しいですね」
 不意にそう言われ、美雨ははっと我に返った。そして自分に向けられるにしては聞きなれない言葉に困惑する。
「……優しい?」
「ええ、とても」
 美雨は訳が分からず首を傾げた。
「昨日のことを訊きたいけれど、そうすればディオンを傷付けるかもしれない。だから訊かない。違いますか?」
「………」
 図星を指されて押し黙ってしまった美雨に、レイリーはふっと優しく微笑んだ。
「好奇心や詮索ではなく、それが案ずるものならば触れても傷は開きません。誰かが触れることで傷が癒えることもあります」
「……でも…」
「私も彼の過去について詳しいことは知りません。ですから確かなことは言えませんが……でも、あなたの言葉ならきっと彼に届くと思いますよ」
 なんて返したらいいのか分からず、美雨はただ黙ってレイリーを見つめた。彼からは優しい笑みだけが返ってくる。
「さて、そろそろ私は部屋に戻りますね。何かあればいつでも呼んで下さい」
 レイリーはそう言って立ち上がり、静かに部屋を後にした。
 手元の器に残る薬湯をゆっくり飲み干すと、美雨は小さく息をついた。独特な苦みが口の中に広がる。
「案ずるもの……」
 美雨はぽつりと呟き、手元を見つめた。
 確かに気にかかっている。自分と似た暗い影の部分を垣間見てしまったから。だが、本当にこれはディオンを案ずるものなのだろうか。ただの好奇心や詮索と変わらないのではないだろうか。
「ミウ様」
 ハッとして顔を上げると、部屋の扉のそばにカヤが立っていた。ぼんやりと考えに耽っているうちに来客があったらしい。カヤの後ろにディオンの姿が見えた。
「ミウ、少し話があるのだが、時間をもらえるか」
「……はい」
 美雨は逡巡したがすぐに頷いた。きっと昨夜の話だろうと思ったからだ。
 二人分の茶を淹れ、カヤが気を利かせて出て行くと部屋の中はシンと静まり返った。その静けさに緊張感が増す。その静寂を最初に切り裂いたのはディオンだった。




 美雨の部屋を出て、そのまま廊下を歩きながらさっき自分が言った言葉を思い出す。
「誰かが触れることで……か…」
 さっきの言葉は嘘ではない。そういうこともあると思っている。だが、それを伝えたのは果たして本当に美雨の為だったのだろうか。
 美雨は何かを心の内に抱えている。だが、それに触れようとすることを彼女は許さない。というよりもそれを見せることさえ許してはくれない。
 それを見たくて、彼女の心に触れたくて、それであのようなことを言ってしまったのだろうか。そうであるなら随分と小賢しいことをしてしまったことになる。
 そんなことを考えながら歩いていると、前からディオンがこちらに向かってくるのが目に入った。
「ディオン」
 向こうも考え事をしていたようで、レイリーが声をかけるとハッとしたように顔を上げた。
「レイリーか」
「アウリ様との話はもう終わったんですか?」
「……ああ、まあな」
 眉を顰めている彼の様子から察するに、あまり好ましい話ではなかったのだろう。昨日の一件に関係あることなのかもしれない。
 だが、それを聞くのは自分の役目ではない。この先で彼を案じている彼女の役目だ。
「でしたらミウのところへ行ってあげて下さい」
 レイリーはにこりと微笑み、美雨の部屋の方向をちらりと見やった。
「何かあったのか」
「いいえ。ただミウがあなたの姿が見えない、と気にかけていたようなので」
「………」
 そう言うとディオンは少し表情を曇らせ、口を閉ざした。
「まあ無理にとは言いませんが」
「いや、行くよ」
「そうですか、それは良かった」
 そのままレイリーが来た方向へ向かおうとするディオンの背中に、レイリーは声をかけた。
「ディオン」
「何だ」
「あまりあの子を不安にさせないで下さいね」
「……ああ」
 短く答え、ディオンは歩いて行った。おそらくこのまま美雨の元へ行ってくれるのだろう。迷いのない足取りから見るに、元からそのつもりだったのかもしれない。
 その姿を見送り、レイリーも再び歩みを進める。

―― 少し意地が悪かったか ――

 そんなことを思い、レイリーは小さく苦笑した。
 美雨を不安にさせたくないのはもちろん嘘ではないのだが、敢えてそれを口にしたのは彼女がディオンのことばかり気にかけているから少し面白くなかったというのもある。言うなればただの嫉妬だ。
 レイリーはふと足を止め、後ろを振り返った。もうディオンの姿も見えない。

―― あの二人……少し似ている気がする… ――

 美雨はラーグへ来て間もないから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが、ディオンは違う。彼とはもう数年前から付き合いがある。にもかかわらず、彼は自分のことをあまり話そうとしないし、必要以上に誰かをそばに寄らせようとしない。
 そういうところが似通っているように思える。
 もしかすると美雨も自分でも知らずにそれを感じ取っているのかもしれない。
 ディオンが美雨の抱える何かに触れ、それで彼女が救われるのならそれはそれでいい。巫女が健やかにあるように心も体も護ることが四神官としての務めだから。
 だが、それでもやはりその役が自分であれば、と思うのもまた確かな感情だった。






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