どうしてあんなことをしたのか分からない。
 部屋に戻った美雨はベッドに横になりながら自分の手のひらを見つめた。鈍い痛みが残っているような気がする。

―― 初めて……人を叩いた… ――

 あのあと、少し待っていろ、とディーニに言い残したディオンは美雨を連れて神殿へ戻った。途中、辺りを探していたらしいクートと会い、ディオンは美雨を彼に託すと何事かを告げて再び元の道を歩いて行った。
 その後ろ姿を目で追っていた美雨だったが、彼の姿が闇に覆い隠される前にクートに促されて神殿の中へと入っていった。
「ミウ、どうして誰にも言わずに抜け出したりしたの?」
 神殿に戻った美雨は早々に礼拝堂の椅子に座らせられ、戻って来たマティアスから説教をくらった。隣ではカヤがぽろぽろと涙を零しながら美雨の手を握っている。
「先日の一件で分かっているだろうけど、今は人々の心も荒れているから何が起きても不思議ではない。いくら神殿のすぐそばと言っても危険なことには変わりないんだよ。巫女である君に万が一、何かあれば取り返しがつかないことになる。私たちはもう二度と巫女を失うことは出来ないんだ。分かるね?」
「……はい」
 声音はいつものように柔らかいが、マティアスの瞳はいつになく真剣だった。青灰色の瞳が真っ直ぐに美雨のそれを捉える。
 巫女であった美陽がいなくなったこと。自分がその代わりの巫女であること。そしてその巫女の存在がラーグにとってどれほど重要なのかということ。それらをどこかでまだ理解しきっていなかったのかもしれない。
 それに、と先日の騒動を思い出す。未だに巫女を快く思っていない人々は大勢いるだろう。その中にはもしかしたら危害を加えようとする者だっているのかもしれない。
 全てにおいて甘く考えていた自分の不用意さを反省し、美雨は青灰色の瞳から視線を下げて力なく頷いた。
「もう二度とこんなことしてはいけないよ。もしも外へ出たいのなら必ず私たちの中の誰かを連れて行くこと。いいね?」
「はい……すみませんでした…」
「……君が無事で本当に良かった。ほら、カヤももう泣き止みなさい」
 マティアスは俯いている美雨の頭を優しく撫で、それから隣に座っているカヤにも同じことをした。
「ご、ごめんなさ……ホッとしたら止まらなくて…」
 カヤは恥ずかしそうに涙を拭いながらそう言った。美雨の右手に添えられている彼女の手がひどく温かく感じる。
「……カヤ、ごめんなさい。あなたにも心配かけて…」
「いいえ、気が付かなかった私が悪いのです。ミウ様がご無事であれば何も申すことなどございません」
「違う、私が悪いの。本当にごめんなさい」
「……ミウ様…」
 顔を俯けたまま譲らない強さで答える美雨に、カヤは少し困ったように眉を下げた。
「遅くなった」
 その声に顔を上げるとちょうどディオンが入ってくるところだった。
「お帰り。いまお説教が終わったところだよ」
「そうか」
 皆の近くまでやって来たディオンをちらりと見やる。心なしか左の頬が赤くなっている気がした。
「とりあえず今日はもう休もう。ミウ、もう抜け出したら駄目だよ」
「はい。本当にすみませんでした」
 そう言って美雨は皆に向かって頭を下げた。
「部屋まで送ろう」
 ディオンに促され、美雨はカヤと共に部屋に向かった。その間、ディオンは一言も発さず、一度も美雨の方を見ることはなかった。怒っているようではないけれど、その背中は声をかけることを躊躇わせるほど今は拒絶されているように思えた。
 部屋に戻った美雨は今度こそ大人しくベッドへもぐり込んだが、やはり眠ることは出来なかった。
 あの後、ディオンはディーニのところに戻ったはずだ。話の続きをしたのだろうか、とそんなこと考える。それこそ美雨が心配する必要はないし、本人からも "関係ない" とはっきり言われているが、気になって仕方がなかった。
 そしてそれ以上にディオンの言葉が頭から離れなかった。

"元より俺はあの中には必要のない人間だったんだ。あの人には、あの人達にはお前さえいればそれでもう……"

 彼には彼の思いや事情があって言ったことなのだろう。だが、あの言葉はまるで自分のことを言われているみたいで激しく心を揺さぶられた。
 あれ以上聞きたくなくて、それなのに止める言葉が出なくて、気が付いたら彼の頬を叩いていた。

―― 必要のない……か… ――

 叩いた手のひらの痛みが、あの日、病院で母に手を払われた時の痛みと重なる。自分の存在を否定されたような、鈍い痛み。
 美雨はそれを振り払うようにぎゅっと手を握り締め、それから瞼を無理やり閉じた。




「……っ…」
 ディオンは自分の呻き声にハッと目を覚まし、勢いよく身を起こした。まだ夜は明けておらず、どうやら寝ついてからそれほど時間は経っていないようだ。

―― あの夢か…… ――

 気分の悪い寝覚めに、ディオンは額に手を当てて深くため息をついた。もうずっと見ることのなかった幼い頃の夢。それを今になって見たのはきっとディーニと会った所為だろう。
 弟といっても共に暮らしたのは三年足らず。ディーニにとってはディオンという兄がいたことすら記憶に薄いはずだ。それでも自分を兄と呼び、真っ直ぐに向かってくるディーニを思い出し、ディオンは眉を顰める。
 自分には与えられなかったものを一身に受けて育ったのだ、と一目で分かった。確かに顔立ちは似ているかもしれないがその内は全く異なり、彼はとても素直で真っ直ぐだった。それが己との違いをまざまざと見せつけられたように思えて仕方がなかった。
「兄さん」
 昨夜、クートに美雨を預けた後、ディーニの元へと戻った。話し合う気は更々ないが、二度と来ないように釘を刺す必要があると思ったからだ。
 だが、ディオンが折れてくれたのかと思ったのか、ディーニは表情を明るくして名を呼んだ。その期待の眼差しに耐えきれず、ディオンは思わず目を逸らした。
「……もう二度と会いに来ないでくれ。何度来ても俺の意志は変わらない」
「それはもう……絶対に母さんに会う気はないってこと…?」
「……そうだ」
 そう言うとディーニは悲しそうに顔を歪め、ディオンの腕を強く掴んだ。思い掛けない力に一瞬たじろいだが、すぐに平静さを取り戻す。
「どうしてだよ?!兄さんは母さんに会いたいと思わないの?!母さんのことそんな程度にしか」
「ディーニ、お前には解らない」
 そう言って遮ったディオンの声はひどく落ち着いており、ディーニの悲痛な叫び声とは正反対にどこか温度を感じさせない声音だった。
 ディーニが必死になるたび、ディオンの中の何かが冷えていく。

―― そうだ……お前には解らない…絶対に… ――

 ディオンは心の中で繰り返した。
 両親のもとで安穏と育てられたディーニと、それとは反対に一人で生きる術を身に着けてきたディオン。おそらく根本から違うのだ。
「俺のことをどういう風に聞かされているのか知らないが、お前の考えを押し付けるのは止めてくれ。今の俺には巫女を護るという大切な使命がある。他の事に心を配る余裕はない」
「だけど」
「二度と……会いに来ないでくれ」
 まだ食い下がろうとするディーニの言葉を遮り、ディオンは念を押すようにもう一度繰り返した。そして自分の腕を掴んでいたディーニの手をゆっくりと払い、そのまま踵を返した。
「……また来るよ、兄さん」
 悲しそうな声が背中に届く。だが、ディオンは聞こえないフリをしてそのまま歩き去った。
 そこまで思い出し、ディオンは再びため息をついた。冗談じゃない、と心の中で吐き捨てる。今になって会いに行け、などと言い出すアウリとディーニに沸々と怒りが湧いてくる。
 二人がこうして必死になって説得するということは、おそらく母はもう長くは持たないのだろう。だからこそこのタイミングで祖国に戻ったいまのうちに会いに行け、と言っているのだ。
 それは分かっている。だが、感情がついて行かない。母の意志を尊重する者は多くいても、ディオンの気持ちを汲もうとする者は誰一人いない。
 ざわざわと波立つ心を沈めようと、ディオンは拳をきつく握り締めて深く息を吐く。ふと、美雨の言葉が脳裏に蘇った。

"もう……止めて…"

 俯いたままそう言った彼女の小さく震えた声が耳に残っている。
 ディオンは握った拳を緩め、その手で左の頬に触れた。痛みよりも何よりも、美雨があれほど感情を露わにしたことに驚きを隠せなかった。
 あの時の何が美雨の心に触れたのだろうか。いくら考えても分からない。ただ単に言い過ぎた己を諌めようとしただけなのかもしれないが、何故かそうではないと思えた。
 すぐに俯いてしまったから表情は見えなかったが、一瞬見えた瞳は不安そうに揺れ、まるで今にも泣きだしてしまいそうなほど弱々しかった。

―― あの子は……何を抱えている…? ――

 そんなことを考えながらディオンは再びベッドに倒れ込むと真っ暗な天井をぼんやりと見上げた。目を開けていても閉じていても、結局浮かぶのは美雨の姿だけ。
 夜明けまでまだあるというのに最早眠れそうにはなかった。






日向雨 TOP | 前ページへ | 次ページへ






inserted by FC2 system