ティスカ神殿での滞在も残すところあと二日となったが、美雨は変わらず日中は街へ行き、月が昇る頃に舞を舞うという生活を繰り返していた。
 最初の日の騒ぎのお陰というべきか、この街に住むほとんどの人が新しい巫女について周知したようで、あれ以来目立った混乱はない。しかし、騒ぎはなくとも巫女として認められていないのは彼らの視線でありありと分かった。
 その怯えた瞳を見るたび、果たしてこれで本当に彼らに希望を与えることが出来るのだろうか、と美雨は気が沈んだ。むしろこの姿を人に見せず、ただ黙々と祷り場で舞を舞っている方が良いのではないかと思えてくる。
 さらに彼女は自分を庇ったせいでディオンに怪我を負わせてしまったことも未だに気に病んでいた。己の役目だから、と彼は言っていたが、それでもやはり申し訳なさは拭えない。
 きっと美陽と巡礼に出た時はこんなことは起らなかったはずだ。歓迎され、期待され、希望に満ちた瞳が向けられていたに違いない。
 それが今は打って変わって信頼されない巫女である自分と居るばかりに彼らもまた大変な目に遭っている。彼らに対して引け目を感じるのは致し方ないことだろう。
「………」
 美雨はそばにあった小石を掴み、そのまま前に向かって投げた。ぱしゃん、と小さく水の跳ねる音が聞こえる。
 すでに真夜中に差し掛かっている時刻だ。所々に明かりが灯されているとはいえ辺りはひどく薄暗く、目の前の川に至っては水面に反射する微かな光がなければそこにあると気付かないくらいだ。
 美雨がいま座っているのは神殿の裏手にある川の畔で、先日、散歩している時に見付けたのだが、人気がなく静かで結構気に入っていた。
 今夜も舞を舞った後、いつもの倦怠感に襲われた美雨はベッドに入って休んでいたのだが、一度途中で目が覚めてからやけに冴えてしまい、こっそりと部屋を抜け出してこの場所へやって来たのだ。
 本来ならばカヤか誰かを連れて来るべきなのだろうが、いまは何となく一人で居たかった。それにここは神殿のすぐ近く、ほぼ敷地内と言ってもいいくらいの場所だ。危険なことはないだろう、と美雨は安易にもそう思っていた。
 持ってきたランプがちらちらと揺れ、辺りに幻想的な影を作る。流れる川のせせらぎ以外はシンと静まり返っていた。
 冷たい風が頬を撫で、美雨は身震いをしながらマントの前をぎゅっと合わせた。マントを羽織ってはいるものの、さすがに夜の冷え込みは半端なものではない。雪が降ってもおかしくないほどだ。
 はあ、と手に吐きかける息は白い靄となり、すぐに闇に溶けて消えていく。美雨はふと思い立って口元に持ってきていた手のひらを少しだけ丸めて上に向けた。
 それからゆっくりと瞳を閉じ、手のひらに意識を集中させる。しばらくすると、ほんの少し温かなものが感じられた。目を開けて見れば手の中にぼんやりとだが淡い光が集まっていた。
 空っ風に晒された指先はひどく悴んでいたが、それよりも "力" が使えたことにほっと息をつく。アヴァードの話を聞いてからずっと密かに訓練していたのだ。
 巫女はその力を以てあらゆる事象を起こすことが出来る。しかし美雨には馴染みのない "セラ" というものを扱わねばならないのだ。最初はよく分からず苦労していたが、今ではこのくらいの光りを灯すことは出来るようになっていた。
 手のひらを軽く握ると光はふっと消えた。自分の手を見つめ、小さく息を吐く。舞いのときのような激しい倦怠感はないが、それでもやはり少し疲れる感じはある。
 と、その時、後ろからパキッと枝が折れたような音がした。咄嗟に振り向くとそこには一人の青年が立っていた。神殿の中でも街でも見たことのない顔のようだが、彼は随分と驚いたような表情をしている。
「……光の…巫女様…?」
 青年はうわ言のように小さく呟いた。




「ミウ様!ミウ様!?」
 真夜中に相応しくない大きな声でディオンは目を覚ました。同室のレイリーも目を覚ましたらしく、起き上がって顔を見合わせるとすぐに廊下へ出た。残る二人の姿もすでにそこにある。
「兄様!!」
 マティアスの姿を見つけたカヤが泣きそうな顔をして駆け寄って来る。何か余程のことがあったのだろう。
「カヤ、落ち着いて。どうしたの?」
 しがみつく様に腕に縋るカヤを宥めながらマティアスは優しく問いかけた。
「ミウ様がいらっしゃらないの!目が覚めたら部屋にいなくて……」
 その場にいた四人が一斉に息を呑んだ。

―― まさか…… ――

 カヤの言葉にディオンの脳裏に考えたくもないことが思い浮かぶ。おそらく他の三人も同じことを思ったのではないだろうか、皆一様に険しい顔をしている。
「気付いたのはいつ?」
「ついさっきよ」
「手洗いとかではないのかい?」
「そう思ったのだけれどお戻りにならないから見に行ったの。でも何処にもいらっしゃらなくて……どうしよう、兄様、私…」
 普段はきちんと名前で呼んでいるのだが今は気が動転しているのだろう、昔の呼び方に戻り、口調も親しい者に対するそれになっている。マティアスはそんなカヤを落ち着かせるように彼女の肩をポンポンと叩き、優しく微笑んで見せた。
「大丈夫、私達も探すから。カヤはレイリーと一緒にもう一度建物の中を探して。ディオンとクートと私は外を探そう」
 手早く出された指示にそれぞれが頷き、時間を惜しむようにして駆け出す。外へ出た三人はとりあえず神殿の周囲を探そうとバラバラに分かれ、ディオンは神殿の裏手に回った。
 街灯の明かりが少ない裏手では夜の闇がさらに濃く、自分の足元すら危うい。ディオンは何も見落とさないように目をよく凝らした。

―― ミウ……何処へ行った…? ――

 美陽が突然姿を消した時のことが脳裏に蘇る。あの時もこうやって走り回って探した。このまま美雨が見つからなかったら、と最悪の状況を思うだけで絶望的な気持ちになる。
「……ミウ…」
 半ば願うように彼女の名を呟いた。
 焦りの中に巫女を気遣うのとは違うものが含まれていることに気付いたが、ディオンはそれを振り払うようにして再び辺りの気配に意識を集中させる。
 ふと反対側に視線をやると神殿から少し離れた木の陰に薄明かりが見えた。あの辺りは川辺で近くに街灯はないはずだ。となれば誰かしらが持ち出したランプの明かりだろう。
 急いでその方向に向うと、川の畔にランプの明かりに照らされて影になった美雨の後ろ姿が見えた。が、安堵したのも束の間、そのそばに人影があるのに気付き、背筋が冷えた。
「……っ…」
 ディオンは考える間もなく駆け出した。




「……巫女様…」
 突然現れ、引き寄せられるように一歩、また一歩と近付いてくる青年に不信を覚え、美雨はさっと立ち上がると彼から少し距離を置いた。それに気付いた青年はハッと我に返ったようで、慌てふためきながら頭を下げた。
「も、申し訳ありません。俺……あ、いや、私はディーニと申します。明かりが見えたので何かと思って来てみたのですが、まさか巫女様がいらっしゃるとは思わず……驚かせてしまいました…よね…?」
 一息にそう言うと青年は伏せていた顔を少し上げ、窺うように美雨を見た。その一連の流れが何とも言えず滑稽で、美雨の警戒心はすっかりどこかに消え失せていた。巫女と知ってこんなに普通に接してくれた人は初めてだったからかもしれない。
 それに薄暗くてぼんやりしてはいるが、青年の顔がどこかで見たことがあるように思えたのだ。
「いえ……私の方こそ」
 シン、と何となく気まずい静寂が二人の間に流れる。
「あの……ディーニ…さんはこんなところで何を?」
 警戒心は消えたが、何故こんな時間にこのような場所にいるのか気になり、何気なく問うた。するとディーニは言葉を詰まらせ、表情を翳らせた。
「……兄に……会いに来たんです」
 何か訳ありなのだ、と美雨はすぐに感じた。そうでなければ普通は日中にくるはずだ。そう思い、黙ったままでいると案の定、青年はそれらしいことを言った。
「兄は私になど会いたいとは思わないでしょうが……どうしても会って伝えたいことがあるんです」
「……ここに仕えている方なんですか?」
「以前は……でも今は…」
 そう言ってからディーニは真っ直ぐに美雨を見た。その視線に思わずたじろぐ。
「巫女様、お願いがございます。どうか兄に会わせて下さいませんか」
「え……」
 ディーニからの突然の願い出に美雨は意味が理解出来ずに狼狽えた。それでもなお、ディーニは美雨に詰め寄った。
「あなたの言葉ならきっと兄も聞いてくれるはずです。私の兄は」
「ミウから離れろ!」
 ディーニの言葉は後ろから響いた鋭い声に遮られ、そして美雨の体はあっという間に力強い腕の中に隠された。
「ミウ、何を考えている!こんな夜中に共も付けずに一人で外に出るなんて!!」
「ご、ごめんなさい」
 これほど怒っている彼を見るのは初めてだ。ディオンの怒鳴り声に美雨は思わず身を竦めたが、彼はそんなことは気にせず、目の前にいる男から視線を外すことなく睨み付けている。
「説教はあとだ。それよりも貴様、何者だ?ここで何をしている?」
「あの、この人は」
「……兄さん…」
 美雨が説明するより早く、ディーニがぽつりと呟いた。その一言に辺りの空気が止まったようになる。
「兄さん……って言っても俺の顔なんか分からないか……。ディーニって言えば名前くらいは思い出してくれる?」
 ディーニは眉を下げながら苦笑してそう言った。その表情がひどく寂しげに見える。
「……ディーニ…?」
 戸惑いを含んだ声音が頭上から聞こえた。
「お前……ディーニなのか…?」
「うん。久し振りだね、兄さん」
 眉を下げて口元に笑みを浮かべていたディーニが小さく頷いて言った。
 ディーニとディオン、二人の顔を交互に見やり、ああそうか、と美雨は心の中で呟いた。これで全てに合点がいった。
 さっき初めて会ったというのに、どこかで見たことがあるような気がしていたのはこれだったのだ。金色の髪に澄んだ緑色の瞳。こうして見れば顔の作りもディオンとよく似ている。
 そして、ディオンは四神官の一人。だからディーニは美雨に兄に会わせてくれ、と頼んだのだ。
「……何しに来た」
「兄さんに会いに」
 ディーニはそれだけ言うと、反応を待つようにじっとディオンを見つめた。不意に美雨の体に回された腕に力が籠ったように感じられ、美雨は自分を抱きかかえている人物を見上げた。

―― いつもと様子が違う……? ――

 長く感じられた沈黙の後、ディオンが彼に投げたのは冷たい一言だけだった。
「帰れ」
 初めて聞くその声音に美雨は目を瞠る。そこにいたのはいつもの優しいディオンではなく、冷たく悲しい目をした見知らぬ人であった。






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