神殿へ戻るとディオンは美雨をカヤに預け、自分はレイリーと共に皆より一足先に部屋へと戻った。今頃、マティアス達がアウリに報告に行っているはずだ。
 血で固まった傷口を水で洗い流した後、ディオンは長くもない前髪を手で撫で上げ、レイリーに傷を見せた。覗き込んだレイリーがほっと安堵の息を吐く。
「あまり深くはないようですね。念の為、薬を塗っておきましょう」
「すまない」
「いいえ。大事がなくて良かった」
 レイリーは水気を軽く拭き取った後、傷に軟膏を塗り込んだ。ピリピリとしていた痛みが少し和らぐ。
 傷の処置が終わってからディオンはふう、と息を吐いた。
「……全く情けないな」
 不愉快そうに眉を寄せ、苦々しく独り言ちた。
 美雨が表に出るときには多かれ少なかれ騒ぎが起こるだろうと予想はしていた。それなのに余計なことに気を取られていた所為で飛んできた石に気付くのが遅れてしまった。
 頭の片隅に残るのは昨夜のアウリの話だ。望んで聞いた訳ではないが、聞かなければあんな無様な失態も犯さなかったはずだ、と心の中でほぞを噛む。
「先にアウリ様の所へ行ってますね」
 ディオンの心境を察してか、レイリーは労わる様な笑みを向け、部屋を出て行った。簡単に慰めの言葉をかけたりせず、ただ一人にさせてくれる彼の気遣いが有難い。
 一人になって幾分気持ちが落ち着くと、ディオンは先程のことを思い返した。
「不思議な娘だ」
 ディオンがぽつりと呟く。
 石を投げつけられたあの時、美雨の顔には驚きと恐怖が綯い交ぜになった表情が浮かんでいた。それも当たり前のことで、普通の娘ならば泣いても仕方のない状況である。
 だから美雨も泣きはしなくともあのまま何も出来なくなってしまうだろうと思っていた。しかし、実際の彼女の行動は全く予想だにしないものだった。
 あの少年に対して怒りを覚え、罰しようとしていたディオンを首ひとつ振るだけで諌め、荒ぶっていた少年に恐れることなく近付くとたった一言で大人しくさせた。
 騒ぎがあの程度で済んだのはそのお陰だろう。おそらく彼女が少しでも狼狽える素振りをみせていたのなら騒ぎはもっと大きくなっていたはずだ。彼女の毅然とした態度が彼らを沈めたのだ。
 見事としか言いようのない彼女の行動にディオンは思わず見惚れてしまった。常々、大人びているとは思っていたが、あの時の美雨の凛とした、臆すことのない横顔はハッとするほど美しかった。

―― だが…… ――

 ふと自分の手のひらに視線を落とし、ディオンはそれを軽く握り締めた。
 石礫いしつぶてから守る為に咄嗟に抱き寄せた彼女の体はその後の行動が嘘のように、ひどく弱々しく感じられた。縋るようにぎゅっと自分の袖を握る姿に比護欲をそそられ、馬鹿げた考えが頭の中を掠めた。
 そんなことを思っていたディオンの耳に控えめなノックの音が届いた。レイリーが戻って来たのかと思ったが、扉は一向に開く気配がない。ディオンが扉を開けると、そこに立っていたのは美雨だった。
「どうした?」
 予想外の来訪に少し面を喰らいながら問えば、彼女は開いた口を一度閉じ、それから言いにくそうに再度口を開いた。
「あの……傷の具合はどうですか?」
 彼女の視線がおずおずとディオンの額に注がれる。
「大丈夫だ。もう何ともない」
 傷に軽く触れながらそう答えてやれば、彼女はホッとしたように小さく息を吐いた。心配してくれていたのかと思うと妙に嬉しく感じる。
 廊下で立ち話というのもなんなのでとりあえず部屋の中へ促し、扉を閉めてから向き直ると、彼女は徐に頭を下げた。
「私を庇ったせいで……ごめんなさい」
「それが俺の役目だ。謝ることは何一つない」
「……ありがとう」
 少し俯く彼女は普段と違って少しだけ幼く見えた。
「悪かった」
「え?」
 突然の謝罪に美雨はきょとんとした様子で聞き返す。
「怖かっただろう、あんな騒ぎになって。ああなることは予想出来ていたんだが……やはり先に言っておけばよかったな」
 そうすればいくらか心の準備も出来ただろう。教えずにいたのは間違いだったかもしれない。
 だが、美雨は視線を外すとそのまま首を横に振った。
「私が不安に思わないようにしてくれたんですよね?」
 言わずとも美雨は的確に彼らの意図を汲み取っていた。確かに敢えてそれを教えなかったのは悪戯に彼女を不安にさせないように、と思ってのことだった。
「まあ……そうだ」
「巫女を快く思っていない人も多いってアヴァード様から聞かされていましたから、分かってはいたんですけど」
「……怒らないのか?」
「怒る?」
「理不尽に怒りをぶつけられ、石まで投げられて」
 そう問えば、彼女は組んだ手にすっと視線を落とした。
「……彼らの言い分は尤もでしたから。期待して、信じていた巫女がいきなりいなくなれば怒りが込み上げて当然ですし……その原因を作った私には言い返すことなんて出来ません」
 その声が悲しそうに聞こえた所為かもしれない。気付けばディオンは少し俯いた美雨の頭を抱き寄せ、その髪を撫でるように梳いた。
「そんな風に思わなくていい。全て自分の所為だと背負い込むことはない」
 言い聞かせるように静かにゆっくりとディオンは言った。
 抵抗することもなく、ただ黙って腕の中に納まっている美雨を抱き締めていると、先ほどの馬鹿げた考えが不意にまた頭に浮かんだ。
 このままずっと彼女をこの腕の中に閉じ込めてしまいたい、と。
 思わず抱き締める腕に一瞬力が籠るが、ディオンはすぐに持ち前の自制心を揮い起こし、ゆっくりと体を離すと美雨の頭を優しく撫でた。
「このあとこそ大切な役目があるだろう。いま少し休んだ方がいい」
「……はい」
 俯きがちに首を縦に振ると、美雨はそのまま部屋を出て行った。その後ろ姿を目で追いながら、ディオンは小さく息を吐いた。




 夜、神殿の中に鐘の音が鳴り響いた。月が一番高く昇る時刻を教えてくれる合図だ。
「ミウ、準備はいいか」
「はい」
 カヤが後ろで恭しく頭を下げて美雨を見送る。侍女である彼女も神聖な儀式の場にだけはついていけない決まりらしい。
 ディオンに手を引かれ、連れて行かれたのは真っ白な部屋だった。祷り場は床も壁も一面が白く、扉から向かって正面の壁だけに大きなガラスが嵌め込まれている。同じ祷り場でも神殿によって作りは様々なようだ。
 その四隅にそれぞれ四神官が一人ずつ向かい、胸に手を当てて静かに控えた。真っ白な巫女装束を纏った美雨が部屋の中央へとゆっくりと歩いて行くと、神具と錫杖の涼やかな音だけがシンとした空間に響いた。
「では、巫女様。祷りの舞を」
 アウリの声が始まりを告げる。
 美雨は目を閉じて昼間のことを思い出した。
 怒り、怯え、不信。そんな負の感情の込められた瞳が一斉に注がれた。だが、その中でもあの少年が放った一言が忘れられない。

"どうせまたおれたちをみすてるんだろっ!"

 あの言葉はあの場にいた皆の、否、この世界に生きる人々の本音だろう。
 一度は信じたものに背を向けられれば誰だってそう思うはずだ。例えそれが本人の意思と関係なく起こった事だったとしても、それを知らない者にしてみればただの言い訳にしか聞こえない。
 少年の投げた石が当たったわけではないのに頭は鈍い痛みを覚え、周りの喧騒もいまだ耳に残っているような気がする。
 美雨はそれを振り払うようにグッと錫杖を強く握りしめた。シャラン、と響いた鈴の音も幾分大きく聞こえる。
 彼らから巫女を、美陽を奪ってしまった自分がいま出来ること。それは舞を舞い、この地と繋がり、いずれ訪れる儀式の日に備えることだ。それが失った希望を取り戻し、そして信じて貰う一番の近道となるだろう。
 美雨はゆっくりと目を開け、すっと息を吸い込んだ。
 右手に持った錫杖を一度床に打ち付け、舞が始まる。それから滑るように左足を出し、同時に錫杖で空を薙いだ。
 シャラン、シャラン。
 美雨の動きに合わせて錫杖の鈴の音が音楽を奏でるように軽やかに鳴る。何度も何度も浚った動きはきちんと身についてくれたようで、閊えることもなく滑らかに動いてくれた。
 足を出すたび、腕を振るたび、幾重にも重なった薄絹がふわりふわりと揺れ動く。

―― 私にその力があるなら……どうか… ――

 美雨は祈るようにそう思い、大きく錫杖を薙いだ。すると錫杖と神具に付けられた石が内側から輝きだし、その光は辺りに弾けるようにパッと散った。
 音もなく降る光の欠片を眺めていると、美雨は自分の体からすうっと体から力が抜けていくのを感じた。足元から崩れるような感覚は貧血になった時にも似ており、全体に重い倦怠感が広がる。
「……ぁ…」
「ミウ!」
 カクン、と膝が落ちそうになった体を駆け寄ったディオンがすかさず支えてくれる。
「大丈夫か」
「………」
 心配そうに覗き込むディオンに辛うじて小さく頷く。
「ご立派でした」
「……終わったの…?」
 声が聞こえた方に顔だけ向ければ、アウリが満足気な笑みを浮かべて頷いた。
「ええ」
「……良かった…」
 力なくそう呟くと、美雨は落ちてくる瞼に逆らわず、そのまま瞳を閉じた。
「まだ力を使うのに慣れていないようですので疲労が出たのでしょう。どうかゆっくりお休み下さい」
 近くにいるのに遠くで話しているように聞こえる。そして次第に声は聞こえなくなり、美雨は意識を手放した。






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