潮の流れが速かったようで航海は順調に進み、目的の港に着いたのは予定よりも少し早く、出航して三日後の午後一時を回った頃だった。
 船酔いの名残か、下船したにもかかわらず地面がゆらゆらと揺れているように感じられ、未だに船の上にいる気分だ。
「ミウ」
 荷や馬車を下ろしている間、港の待合所で体を休めているとディオンに呼ばれた。
「体調はどうだ?まだ少し顔色が良くないようだが……」
「平気です。貰った薬も飲みましたし」
「そうか。では出発するが具合が悪くなったらすぐに言うように」
「はい」
 差し出された手を取って立ち上がる。と、ディオンはその手をきゅっと握り、じっと美雨を見つめた。
「ディオン?」
「ここからは俺がそばにいる。何でも頼れ」
 巡礼のしきたりのひとつとして他国にいる間はその国の者がそばにつき従う、というものがあるらしい。以前、アヴァードから聞かされていたので美雨は素直に頷いた。
 ディオンはそれを見ると彼女の手を引いたまま馬車へ向かった。いつもと変わらない表情なのに何処か満足そうに見えた気がした。
 それから美雨、カヤ、ディオンは馬車に乗り込み、今度はマティアスが御者席に着いた。クートとレイリーはそれぞれ馬に乗って神殿を出た時と同じように馬車を守るようにして並走している。
「神殿まではどの位かかるんですか?」
「途中、いくつかの街で宿を取りながら進むから……そうだな、三日もあれば着くだろう」
「三日?」
 てっきり今日、明日にでも着くのだと思っていた美雨は驚いて声を上げた。
「ティスカ神殿は内陸部に位置しているからこの港からだとかなり距離がある。早馬なら一日で行けなくもないが、今回は急ぐことが目的ではないからな」
 確かに急いで巡礼を終えたところで "光耀の儀" が早まるわけではない。
「今日もどこかで宿を?」
「二つ先の街まで行く予定だ。陽が落ちる前までには着くだろう」
「良かったですわね、ミウ様」
 ディオンの答えを聞いたカヤは嬉しそうに美雨を見た。が、当の美雨は何のことかよく分からずに首を傾げる。するとカヤが笑いながら言った。
「揺れないベッドで眠れます」
 その言葉に一瞬きょとんとしてしまったが、直後、ふっと笑みが零れた。
「そうね」
「実は私も船というのはあまり得意ではなくて」
「そうだったの?」
「ええ。酔うほどではないのですが、やはりあの揺れは心地良いものではないので」
 意外だった。いつも通りに見えたから船は平気なのだと思い込んでいたが、実はそうではなかったらしい。
 自分の具合の悪さにばかり気がいっていたから全く気付かず、苦手な所で世話を焼かせてしまったことに申し訳なさが込み上げてくる。しかし、カヤはそんなこと意にも介していないようだ。
「それにしてもやっぱり北の大陸は寒いですね」
「そうね」
 口には出していなかったが、美雨も気候の違いに少なからず驚いていた。
 ゼノフィーダ神殿があった島は比較的穏やかな気候だったが、この大陸はまるで冬のような寒さだ。マントを羽織っていても隙間から入る冷気に身体は冷えていた。馬車の中だからまだマシであるが、外にいる彼らはもっと寒いだろう。
「いつもこんな寒さなのですか?」
「そうだな。だがいまは闇で陽が隠されているから余計に気温が低いのだろう」
 カヤの問いにディオンは手短に答え、再び口を閉ざす。
 寡黙な人だ、と思った。
 振られない限り自分から進んで話をしようとするタイプではないようだ。
 美雨自身、あまり喋るほうではないのも手伝って、こんなに近くにいても二人の会話はほとんど無かったけれど、彼女にはそれが不思議と心地良く感じられた。
 しばらくして馬車の揺れに慣れたのか、瞼が急激に重くなってきてしまった。船の中であまりしっかり眠れなかったのも重なったのだろう。
「眠くなったか?」
「……大丈夫…です…」
「無理するな。カヤ、席を替わってくれるか」
 薄れてきた意識の中でディオンが言ったのを聞いた。何だろう、とぼんやりと思っているうちに移動が終わったようだ。ふわりと肩を抱かれ、車内の壁に傾きかけていた体を反対側に倒された。
 どうやらディオンの膝の上に頭を預けさせられたようだ。肩には腕が置かれ、美雨が落ちないように優しく押さえている。その上にマントか何かをかけられた。
「窮屈だと思うが少し眠っていろ」
「……ん…」
 普段ならば起き上がってすぐに距離を取るところであるが、睡魔に負けた美雨はすでに半分以上薄れかけていた意識の中でなんとか返事らしきものを返し、うとうとと微睡まどろみ始めた。




「少し休憩しようか」
 そう言ってマティアスは適当なところで道の端に馬車を止めた。それから馬車の扉を開け、中の光景を見て手を止めた。
「……おや」
 マティアスの視線の先にあったのはディオンの膝の上に頭を預け、すやすやと眠っている美雨の姿だった。ディオンがこちらを振り向き、それから彼女を起こさないよう小さめな声で言った。
「まだ目を覚ます様子がない。このまま起こさないでやってくれないか」
「君には随分と懐いたようだね」
「そういう訳じゃない」
 少しからかうような口調に、ディオンは至って真面目な顔で返答する。
「昨日あまり眠れなかったのかな。カヤも良く寝ている」
 ディオンと美雨の向かいには壁に寄り掛かるようにして眠りについているカヤの姿もあった。どうやら二人とも慣れない船旅で疲れているらしい。
「じゃあここに置いておくから、彼女たちが目を覚ましたら食べさせてあげて」
「ああ、分かった」
 マティアスは車内に乗り込んで空いている席に水とパンが入ったバスケットを置き、それから思いついたようにディオンの方を振り返った。
「ミウはどんな夢を見るのかな」
「……さあな」
 突飛な質問に呟くように答えたディオンが美雨の髪を梳くようにそっと撫でる。マティアスは珍しいものを見たように少しだけ目を丸くし、それからにやりと口の端を上げた。
「ミウが幸せな夢を見られるように」
 そう言ってマティアスは美雨の額にかかる髪を優しく除けるとそこにそっと口付けをした。その瞬間、ディオンの肩がぴくりと動いた気がした。
「…う……ん…」
 不意に眠っていた美雨が身じろいだ。
「……マティアス、ミウが起きる」
「おや、すまない。それじゃあ私は持ち場に戻るよ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべながらマティアスは退散し、それから御者席へ戻った。その途中、先ほどのディオンの表情を思い出しながらくすくすと笑った。

―― あのディオンが、ね ――

 本人に自覚があるのかどうか分からないが、傍からは嫉妬しているように見えた。むしろ嫉妬したいのはこちら側だということにディオンは全く気付いていない。
 普段は自分が触れれば体を強張らせる彼女がああも無防備に体を預けて寝顔を見せているなど、面白くないにも程がある。思わずちょっとした嫌がらせをしてしまった。
 他の者達はどうだか知らないが、マティアスは美雨の伴侶になることに異存はない。そしてどうやらそれはディオンも同じようだ。
 最終的に伴侶が決まるのはおそらくゼノフィーダ神殿に戻ってからだろう。その時、美雨が選ぶのは自分か、ディオンか、それとも他の二人のどちらかか。
「面白くなってきたね」
 マティアスは端正な顔に笑みを浮かべ、小さく独り言ちた。




 それから一行は休憩を挟みながらも当初の予定通り夕刻までに目的の街まで辿り着いた。
 闇が覆っている空には陽が出ていないが、それでも夜よりは多少明るい。巫女を護る為にも本格的な暗闇になる夜に街灯も少ない道を進むような危険は極力避ける方向らしい。
「今日はここで一晩、宿を借りよう」
 そう言ってマティアスが馬車を止めたのは小さな教会のような建物の前だった。
「ここは?」
「この街の礼拝堂だよ」
「礼拝堂……」
 馬車から降りた美雨は目の前の建物に目をやりながら呟く。それぞれが荷を用意している間にディオンが礼拝堂の扉を叩いた。
「ゼノフィーダ神殿から巡礼に参った。一晩、宿をお借りしたい」
 すると扉が開き、中から初老の神官らしき人が出てきた。
「お待ちしておりました。さあどうぞ、中へ」
「ありがとうございます」
 神官の許しを得て、一行は中へ入った。思いの外綺麗な室内を失礼にならない程度に見回す。
「して、新たな巫女様は……」
「こちらです」
 そう言ってディオンは一歩後ろへ下がり、自身の後ろにいた美雨を神官の眼前に出した。美雨がその神官に向かって頭を下げると少し慌てたような声が聞こえてきた。
「頭をお上げ下さい。巫女様がそのようなことをされるなど」
 美雨が顔を上げると予想通り、驚きと若干の怯えを湛えた瞳がこちらを見ていた。
「……本当に前巫女様にそっくりであられる」
「双子……ですから」
「ええ、アヴァード様からの書簡で存じ上げております。皆とても驚きましたが、それもレゼルのお導きなのでしょう」
 どうやら前もってアヴァードが至る所に書簡を届けていたらしい。おそらく新しい光の巫女が現れたことは世界中に知れ渡っているのだろう。
 それにしても、と美雨は思った。
 レゼルが認めたというのであれば "禁忌の双子" だとしても巫女として認めるということだ。改めてレゼルへの信仰の高さが窺える。
「長旅でお疲れでしょう。ひとまず部屋でお寛ぎ下さい。食事の用意が出来次第、お呼び致します」
 そう言って初老の神官は別の者を呼び、美雨達を部屋へ案内させた。だが部屋へ向かう途中、すれ違う人達に恐怖が入り混じった稀有な目で見られているのに気付き、美雨は居心地の悪さを感じた。
「ミウ様、お疲れになったでしょう」
 部屋に着くなり、カヤは美雨のマントを外しながら尋ねた。部屋は女性用と男性用で別れており、いまは二人しかいない。
「少し。でも馬車の中で少し眠れたから」
 ディオンにもたれて眠ってしまったのを思い出すと恥ずかしいが、確かにあれで大分休むことが出来た。
「私もつい眠ってしまいました。ディオン様に申し訳ないですわ」
 そう言って苦笑するカヤの笑顔に美雨はホッとした。知らない人々からの視線は殊の外、精神的に堪えるものなのだと実感する。

―― カヤが居てくれて良かった ――

 誰かがそばにいることに安心感を覚えるなんていつ以来だろう。もう記憶にすらない。
 美雨は甲斐甲斐しく自分の世話を焼いているカヤの姿を見ながら、ふっと安堵の息をついた。






日向雨 TOP | 前ページへ | 次ページへ






inserted by FC2 system