目を覚ました美雨は重たい頭を押さえながらベッドから起き上がった。その気配に気付き、カヤが振り向く。
「お目覚めですか?」
「いま……何時?」
 頭がぐらぐらと揺れるような感じがするのを堪えながら美雨は尋ねた。
「朝の八時です。ご気分はいかがですか?」
「大分楽になったわ」
 そう答えるとそれまで心配そうにしていたカヤの表情が幾分か和らいだ。
 この船に乗り込んでからしばらくは平気だったものの、沖に出て本格的に揺れが大きくなってくるとあまり船に乗ったことのない美雨は見事に船酔いした。レイリーから薬を貰って横になっているうちに眠ってしまったらしい。
 楽になったのは嘘ではないが、それでも全快というわけではない。如何せん慣れていないものだから結局のところ下船しない限り気持ち悪さは多少なりとも続く。
「お食事は召し上がれそうですか?」
「少しくらいなら」
「ではすぐにお持ちしますね」
 そう言ってカヤが部屋を出て行くと美雨は足を降ろし、ベッドに腰かける格好になった。
 まだ覚め切っていない目でゆっくりと部屋を見回す。船室はお世辞にも広いとは言えないが、それでも清潔で質素ながらにも必要なものは揃えられていた。
 探していた籠が部屋の隅に置いてあるのを見つけ、美雨はそばに行って蓋を開けた。中に入っていた服を適当に選んで取り出し、ベッドの上に置くと着ていた服を脱いだ。
 シンプルなブラウスに踝まであるふんわりとしたスカートを身に着け、その上に袖のない長方形のポンチョのような羽織りを被り、胸下に柔らかなサッシュを巻く。羽織りはひざ下まであり、その裾には鮮やかな刺繍が施されている。
 元の世界で考えればどこかの国の民族服のようにしか見えないが、ラーグではこれが一般的らしい。ただ、巫女である美雨が着るものは一般の民が着るような色地のものはなく、どれも白でサッシュと刺繍だけに色が入っているのだった。
 最初はどうやって着るものなのかも分からなかったこの世界の服も今ではもうすっかり見慣れ、そして着慣れた。人並みの順応性は備わっているらしい、と我ながら妙な感心をしてしまう。
 着替え終わった頃、カヤが戻ってきた。彼女は扉を開けてすぐにため息にも似た声を上げた。
「まあ、お着替えでしたらお手伝いしましたのに」
「大丈夫よ。着替えくらい一人で出来るわ」
 なるべく手を煩わせたくなくて言った事だったのだが、カヤの笑みが何故だか少し寂しげに見えた。
「スープとパンを少しお持ちしましたから、冷めないうちに召し上がって下さい」
「じゃあ、いただきます」
 小さなテーブルに置かれた食事を少しずつ口に運ぶ。昨日の昼から何も食べていない空っぽの胃に温かいスープがじわりと広がった。
「美味しい」
「良かった。食べ易いように少し薄味にしてもらったんです」
 いつもながら彼女の細やかな気配りには感心する。美雨は有り難く思いながら食事を続けていたが、ふと気になったことがあった。
「そういえばどのくらいで着くのか聞いてなかったんだけど」
 地図で地理はなんとなく覚えていても距離感というものが全く分からないので、船でどのくらいかかるのか想像がつかない。
 そう思って尋ねるとカヤは細い顎に手を当てて考え込むような仕草をした。
「風向きや潮の流れにもよると思いますが、早くてもあと二、三日はかかると思いますよ」
 出港したのは昨日のニ時。ということはほぼ丸四日かけての航海だ。まだあと三日も船上にいるのかと思うとかなり気が滅入る。
 そんな美雨の心中を察したのか、カヤは申し訳なさそうに眉を下げた。

―― そんな顔する必要ないのに…… ――

 船酔いしたのは自分の体質のせいだし、航海が長いのも致し方ないことだ。カヤがすまなさそうにする理由などひとつもない。
 美雨はそう思いながらなんとなく視線を下げた。これまで人との付き合いを避けてきたせいで、こんな時どうすればいいのか分からない。
 スープを掬う度、陶器の器にスプーンが当たる音が耳に障る。妙に気まずい雰囲気の中、ようやく全て食べ終えるとそれを見計らったようにノックの音が部屋に響いた。
「どうぞ」
 美雨が答えるといつもの穏やかな笑みを浮かべたレイリーが入ってきた。背の高い彼がいると部屋の中が一気に狭く感じられる。
「気分はどうですか?」
「昨日よりは楽になりました」
 先ほどのカヤとの会話をなぞるようなやり取りのあと、レイリーは手に持っていた小さな紙を差し出した。
「新しく薬を調合しましたのでどうぞ」
 受け取った包み紙を開くと緑っぽい粉が入っており、美雨はグラスに残っていた水を口に含むとその粉薬を一息に飲み下した。
「……にが…」
 ざらりと口の中に残る粉は想像以上に苦く、美雨は思わず眉を顰めて呟いた。その様子を見ていたレイリーがふっと小さな笑い声を上げる。
「薬は苦手ですか?」
「そういう訳じゃないんですけど、昨日のより苦くて」
「苦いほうが効くんですよ」
 良薬は口に苦し、といったところだろうか。どうやらこちらの世界でもそこは同じらしい。
「折角ですから少し甲板に出てみませんか?外の空気を吸った方が気分も良くなりますし、部屋に籠りっきりでは飽きてしまうでしょう?」
「そう……ですね」
 答えながらちらりとカヤを見ると彼女はにっこりと笑って頷いた。その笑顔に促され、美雨は目の前に差し出された手を素直に取った。
「では参りましょうか」
 四神官の誰かがそばにいる時は大抵の場合、カヤがついてくることはなく、今回も彼女は部屋に残って美雨たちを見送った。
 レイリーの歩調はゆっくりで、気遣ってくれているのがとても良く分かる。巫女だからなのか女性全般に対してなのか分からないが、ラーグで出逢った男性は皆ずいぶんと紳士的だ。
「冷えるといけないので」
 廊下の先にある扉に辿り着くと、彼はそれを開ける前に美雨の肩にマントを掛けた。いつの間に持ってきていたのか、実に用意周到である。
 それからレイリーはゆっくりと扉を開けた。潮の匂いを孕んだ冷たい風が顔に当たる中、甲板の手すりのところまで歩いて行く。
「寒くありませんか?」
「はい」
 言いながらマントの合わせを掴み、肌を隠すように首を竦めた。多少寒くはあるがレイリーの言う通り、部屋にいるよりは空気がいいので我慢する。
 全てを呑み込んでしまいそうな灰色の海を見つめていると、ふと風が弱まった気がした。美雨が横を見上げるとそこにはレイリーが立っており、視線に気付いた彼は何も言わずただにこりとだけ微笑んだ。
 それだけで彼が風除けになってくれているのだ、と気付く。ほんの少しだが美雨が寒そうにしていたからだろう、レイリーはわざわざ自分が風上に立ち、冷たい海風から守ろうとしてくれたのだ。
「ありがとう」
 小さく礼を言うと彼は少し驚いたような表情をし、それからすぐに相好を崩して嬉しそうに目を細めた。




 美雨が食べ終えた朝食の食器を厨房へ下げ、カヤは部屋に戻ろうと廊下を歩いていた。
 良い家柄の娘であるカヤは本来ならば侍女がいて然るべき立場であり、侍女の真似事などする必要はない。だが、"光の巫女" の侍女となれば話は別だ。
 "光の巫女" に仕えるということは女神レゼルに仕えるのと同じ意味を持つ。それ故、国中の娘が欲しがるほどの名誉な役目だった。
 もちろんカヤもその中の一人で、叔父であるマティアスが話を持ってきた時は戸惑いと喜びが綯い交ぜになり、何とも言えない感情で胸がいっぱいになったものだ。
 初めて会った時、怯えた様子を見せてしまった自分を美雨は責めることもせず、それどころか少し寂しそうに目を細めた。その微かな笑みを見て、カヤは自分に出来ることなら何でもしよう、と思った。
 だが、意気込んだはいいものの彼女は侍女など必要がないほどしっかりしており、何も出来ない自分に焦るばかりだ。たった二歳しか違わないのに彼女はひどく大人びて見えた。
 先ほどのやり取りにしてもそうだ。不意に見せる硬い表情。それはまるで拒絶されているようにすら思える。
 普段から口数の少ない美雨は感情を表に表すこともなく、何を考えているのか良く分からない。だが、それでも砕けた言葉を遣ってくれる分、自分には少しは気を許してくれているのだと思っていた。
 けれど、よくよく考えてみればその口調すらもカヤが自分から頼んでそうしてもらっただけであって、美雨が自発的にしたわけではない。
 彼女の周囲は高い壁に阻まれているようで他の誰も寄せ付けようとしない。果たしていつかその壁が無くなり、心を開いてくれるときが来るのか不安になってくる。
 情けなくとぼとぼと歩きながら小さなため息を漏らす。ふと顔を上げると前から向かってくるクートの姿が目に映った。通路の端に少し寄ってから軽く頭を下げる。
「様子は?」
「はい?」
 すれ違いざまに唐突に問われて顔を上げると、クートは不機嫌そうに言い直した。
「巫女の様子だよ」
 カヤはああ、と小さく声を上げた。
「昨夜よりはご気分も良くなられたようで、いまはレイリー様と甲板に出ておられます」
 不機嫌そうに聞こえたのは心配だったからだろう、とカヤは思った。だが、クートから返ってきたのは意に反した冷たい瞳と耳を疑う台詞だった。
「そう。しっかり見張っておいてよ」
「……どういう意味でしょうか?」
 明らかにいい意味で言われたわけではないと分かる言葉。カヤは怪訝そうに問い返した。
「そのままの意味さ。巫女が責務を投げ出して逃げないように、な。それを見張るのがあんたの役目だ」
 あまりにも無礼な物言いにカヤは一瞬言葉を失った。が、すぐに気を取り戻すとクートの冷めた瞳をキッと睨みながら言い返した。
「ミウ様は投げ出したりするような方ではありません!」
「どうかな。巫女だって人間だ、気が変わることもあるだろう。いつ前巫女のように居なくなるか分かったものじゃない。まあ、あんたもあまり心を許し過ぎないほうがいいよ」
 クートは冷たい声でそう言い捨てると、そのままカヤをその場に置いたまま立ち去って行った。カヤはその後ろ姿を見送りながら呆然としていた。

―― あんな言い方って…… ――

 いくらクートが四神官だからといってもあまりにも礼を欠き過ぎている。
 まるで美雨を、いや、巫女を信じていないような言い方だった。四神官は巫女を守る為の存在のはずなのに、どうしてあんな不信感をもっているのか。
 彼があんなことを言ったのにはきっと何か理由があってのことなのだろうとは思う。しかし、主である美雨を疑われ、ひどく悔しかった。
 確かに美雨は分かりにくい。感情を露わにしたところなど見たことがない。
 けれど懸命に役目を負おうとしてきた姿をカヤはそばで見てきた。クートが言うように身勝手にその役目を投げ出したりするような人ではないことくらいは分かっているつもりだ。
 それに、とカヤは思った。心を許さない方がいい、とクートは言っていたがそんなのはもう遅い。カヤにとって美雨はすでに慕うべき、そして守るべき存在になっているのだから。
 先程まで感じていた寂しさを心の奥に押し込み、カヤは決意を固めたようにきゅっと手を握った。






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