先ほどまで居た陸地がゆっくりと遠ざかっていく。
空に太陽が昇っていればさぞかし美しいであろうと思わせる眺めもいまは灰色の海が広がっているだけだ。だが、美雨はそれらから目を離すことなく、まるで焼き付けるようにじっと見つめた。
陸地がほとんど見えなくなるくらい小さくなった頃、肩にバサッと何かが掛けられた。驚いて振り向くとディオンがそばに立っていた。
「これからどんどん気温が下がっていく。ずっと外にいると風邪を引くぞ」
だが、そう言うディオンはマントすら纏っていない。それもそのはずで先ほどまで着けていたであろう彼のマントはいま、美雨の体を包んでいるのだ。
「これ」
肩に掛けられたマントを取ろうと伸ばしかけた手をディオンはそっと押し返した。
「いいから羽織っていろ。ほら、こんなに冷たくなっているじゃないか」
知らぬうちに冷たくなっていた美雨の手にディオンの温かな手が重ねられ、そのままきゅっと軽く握り締められる。
「あなたが倒れてしまっては元も子もない。言うことを聞いてくれるな?」
そう言われてしまうと何も言えず、美雨は空いていたもう片方の手でマントの前をきゅっと合わせ、小さく頷いた。
ディオンは四神官の中で最も背が高く、美雨の頭二つ分は違うほどだ。それ故、肩に掛けられた彼のマントはかなり大きく、裾も引き摺って余りある。不格好な状態ではあるが、確かに彼の言う通り冷たくなってきた海上の風から身を守ってくれていた。
美雨が大人しく従ったのを見ると、ディオンはいつもの厳しい表情を少しだけ和らげ、それから静かに手を離した。
交わす言葉もなくなると二人の間には風と波の音だけが聞こえた。マントには彼の温もりと匂いが残っていてまるで抱き締められているような錯覚を起こす。
少し気恥ずかしさを感じ、ちらりとディオンを見やったが彼がこの場を離れそうな様子はない。
「どうした?」
視線に気付いたディオンが首を傾げる。特に用はなかったのだが、美雨はふと思いついたことを口にした。
「あの、北の大陸ってどんな所ですか?」
「そうだな……さっきも言ったと思うが、気温が低いのが特徴だな。冬になれば雪に閉ざされる」
「シーリアも?」
何気なく尋ねてみるとディオンは驚いたように少しだけ目を大きくさせた。
「アヴァード様から聞いたのか?」
「はい」
「そうか」
独り言ちるように彼が小さく呟く。
「どんな国なんですか?」
「シーリアはそれなりに大きな国で鉱山が多く、珍しい鉱石がよく採れる。他国との交易も盛んだが、やはり気候が厳しい所為か人口はそれほど多くはない」
「あなたの家族は今もそこに?」
「……ああ、今もシーリアで暮らしているはずだ」
はず、ということは確かな事実ではないのだろうか。その言い回しに疑問に感じて美雨は更に問うた。
「会っていないの?」
「ああ」
「連絡とかは……」
「していない」
そう答えたディオンの声や表情はいつもと変わらない。それなのにどうしてだろう、少し翳っているように見えた。
もしかしたら家族の話には触れて欲しくなかったのかもしれない、と思った。しかし、美雨はそう気付いていたのにも拘らず、気付けば口をついてしまっていた。
「寂しく……ないですか?」
その問いにディオンはふっと笑った。
「ああ」
「会いたく……ならないですか?」
「そうだな」
どちらとも取れなくもない言葉で返され、美雨は黙り込んだ。
これ以上、深いところまで踏み込む必要はない。それ以前に何故こんな話をしだしてしまったのか、自分でもよく分からない。
急に口を閉ざした美雨にディオンの声が聞こえた。
「……ミウは?」
「え?」
「会いたい者がいるのか?」
その問いに美雨は言葉を詰まらせた。無意識のうちにマントを合わせた手に力が入る。
―― 会いたい……人… ――
「………」
黙ったまま少しだけ俯いているとディオンはそれを肯定ととったらしい。
「そうだろうな。元の世界には親もいるだろうし、ミハルだっている」
「そう……ですね」
なんとか絞り出した声は少しだけ掠れてしまった。上手く誤魔化せただろうか、と思っていると、不意にディオンの大きな手が美雨の頬を包んだ。
「すまない」
何故謝っているのか分からず、美雨は彼を見上げた。
「無神経なことを聞いてしまった……元の世界には戻れないというのに」
「……いえ、平気です」
そういうことか、と美雨は内心で納得した。自分の戸惑いをディオンは郷愁に駆られたのだと思ったのだろう。
「すまない」
「本当に平気ですから」
再び申し訳なさそうに謝るディオンの手に美雨は自分のそれを重ね、さり気なく頬から外した。
「……そろそろ船内に戻ろう。これ以上ここにいては本当に風邪を引いてしまう」
「そうですね」
そう言って二人は話を切り上げ、船内へ続く扉に向かった。前を歩くディオンの背中から視線を外し、美雨は彼に気付かれないようにそっと俯いた。
ディオンは少しだけ首を後ろに巡らせ、肩越しに美雨をちらりと見やった。
元々あまり表情の変わらない彼女から感情を読み取るのは難しいが、今は更に俯いていて全く表情が読めない。
「着いたぞ」
そう声をかけると、足元に落ちていた彼女の視線が上がった。この世界ではあまり見ることのない珍しい黒の瞳がまっすぐにディオンに向けられる。
「ありがとうございます」
彼女の礼を聞きながら部屋の扉をノックすると、中からカヤが顔を出した。
「ミウ様、お帰りなさいませ。ディオン様とご一緒だったのですね」
「うん」
扉を押さえている自分の前を通り、美雨が部屋に入っていく。ディオンはそれを見届けてからカヤに声をかけた。
「海風に当たって少し冷えている。何か温かいものでも飲ませてやってくれないか」
「まあ、だから外は寒いと申しましたのに。すぐにご用意しますね」
どうやらカヤにも同じことを言われていたのに、美雨はそれを押して外へ出ていたようだ。案外、我を通すところがあるのかもしれない。
「ごめんなさい」
いいえ、と言ってカヤは湯を貰いに厨房へと向かって行った。
「彼女も心配するだろうから、もしもまた外に行くのならその時は誰か呼ぶように」
素直に頷く美雨に満足すると、ディオンはそのまま
踵を返そうとした。
「あ、待って下さい」
美雨の制止に出しかけた足が止まり、彼女の方を振り返る。
「これ」
そう言ってもぞもぞとマントを脱ごうとしているが、着慣れていない所為か、それとも着丈が長い所為か、どうにも上手く留め具を外せないようだった。
ディオンはふっと笑みを浮かべると彼女の胸元に手を伸ばしてパチン、と留め具を外してやった。
「ありがとうございました」
美雨はそれ簡単に畳むとディオンに向かって差し出した。
「ああ」
差し出された己のマントを受け取り、ディオンは美雨が部屋に入るのを見届けてから自分に割り当てられた船室に戻った。
美雨が畳んでくれたマントを椅子に掛け、襟元を少し緩めながら先ほどのやり取りを思い出す。
"会いたい者がいるのか"
馬鹿な質問をした、と思った。
自分で望んだわけでもないのにこんな見知らぬ世界に連れてこられ、不安にならないはずがない。会いたいに決まっている。
だが、戻る方法が分からない今、きっともう二度と会うことは出来ないだろう。家族や友人、いったい彼女は何人の大切な人たちと離れ離れになってしまったのか。
それに、とディオンは先ほどの美雨を思い出した。
震えないようにと堪えたような掠れ声、そっと力を籠められた手、ほんの少しだけ揺れた瞳。
―― 向こうの世界に想う者でもいるのか…… ――
ふと、そんな考えが浮かんだ。
美雨だって年頃の娘だ。頭も良く、容姿も人並み以上に整っている。そういう者がいたところで何ら不思議ではない。だが、その可能性にディオンは気分が重くなるのを感じた。
海風に晒されて冷え切った華奢な手。容易く読ませてはくれない壁の張られた心。真っ直ぐに向けられる黒曜石のような瞳。
その手を伸ばし、その心を許し、その瞳で微笑みかけた男がいるのだろうか。
「愚かな」
息を漏らすようにぼそりと忌々しげに呟くと、そのままベッドに仰向けに寝転がる。船室の簡素なベッドがぎし、と軋んだ音を立てた。
顔だけ横に向けて椅子に掛けられたマントを見やり、それから深くため息をつく。
―― お前が振り回されてどうする ――
四神官としての第一の務めは巫女を護ること。それ以外は二の次だ。見ず知らずの、それもいるかどうかも定かではない男に嫉妬している場合ではない。
ディオンは拳をきつく握りしめるとそれらを頭の中から追い出し、愚かしい自分を心の中で戒めた。