神殿の門をくぐるとそこには二頭の馬と一台の馬車が用意されていた。マティアス以外の三人はそれぞれ手綱を受け取り、準備をし始めている。
 移動する手段は向こうの世界と違うことは当たり前に分かっていたはずだが、こうして改めて目の前に見せられると戸惑ってしまう。どうしたものかと思っていると後ろから声をかけられた。
「ミウ、カヤ、こっちへおいで」
 呼ばれて振り向くとすぐそばにマティアスがいつもの笑みを浮かべて立っていた。
「君達は馬車だ。さあ、乗って」
 そう言って彼は美雨の手を取ると、さり気なくエスコートしながら馬車に乗るように促した。次いでカヤが乗り込み、それから最後にマティアスが馬車の中に入った。
「準備はいいですか、マティアス」
 馬車の外からレイリーの声が聞こえた。どうやら彼が御者席についているらしい。
「ああ」
「では、出発します」
 その言葉を合図にゆっくりと進み始めた馬車の窓から外を覗くと、少し後ろに馬に乗ったディオンの姿が見えた。おそらく反対側にはクートがいて、彼らが護衛のような役割を負っているのだろう。
 初めて見る神殿の外の景色に、美雨は視線を左右に動かした。石畳の道の両端には立派な欄干が付いている。いま通っているこの道はどうやら大きな橋のようだ。
「ミウは初めて見るんだったね」
 美雨の視線に気付いたのだろう、マティアスがそう声をかけた。彼女は視線を車内に戻して頷く。
「ゼノフィーダ神殿は小さな島に建てられていて、唯一この橋が大陸へと繋がる通路なんだよ」
 以前、アヴァードから見せてもらった地図でなんとなくの地形は把握していたつもりだが、やはり実際に目で見るのとは違う。海の上に浮かぶ巨大な橋はまさに圧巻であった。
「他に船とかはないんですか?」
 美雨が疑問を口にするとマティアスは頷いてから答えた。
「ここは聖地だからね、そう簡単には入れないようになっているんだ」
 ふうん、と相槌を打ちながら美雨は心の中で首を傾げた。
 アヴァードから聞いた話では光の女神はラーグで唯一にして絶対の神であり、人々の信仰心はとても深いということだった。ならば聖地に建てられたこの神殿を訪れたいと思う者は多数いるはずだろう。それなのに簡単に入れないというのはおかしな話ではないか。
 そんなことを思いながらマティアスをちらりと見やると、彼はにっこりと笑みを浮かべた。美雨が何を考えているか分かっているがあえて何も言わない、という風に見える。
 何か引っかかるものがあるが、教えてくれないということはいま知る必要のないことなのだろう。美雨はそう思い、別のことを訊こうと話を変えた。
「最初はどこの神殿へ行くんですか?」
「まずはここから北の大陸にあるティスカ神殿だね」
「北の大陸……シーリアのある大陸ですよね?」
 頭の中にラーグの世界地図を思い浮かべて何気なくそう言うと、マティアスは少し驚いたような顔をした。何だろう、と美雨が首を傾げる。
「驚いたな。こんな短期間でもうラーグの地理を覚えたの?」
「全部じゃないですけど、主要な場所や神官の出身国はアヴァード様から教えてもらっていたので」
 ラーグの字が読めないので自分で地図を見てもさっぱり分からないが、教えてもらった四神殿や大きな国などは大体頭に入っていた。
「君は本当に覚えがいいね」
「そんなことは」
 ない、と続けようとしたところに隣に座っていたカヤが口を挟んだ。
「そうですよ、兄様。ミウ様はすごく聡明で、時間があれば本を開いていらっしゃるんです」
 そう言って彼女が得意気に胸を張る。
「本?」
「字も読めたほうが都合がいいと思って……カヤから教えてもらっています」
 特に隠しているつもりもなかったのだが、わざわざ言う必要性も感じずに今まで黙っていた。が、改めてこうやって言われるとなんだか気恥ずかしく感じ、少し口籠りながら美雨は答えた。
「へえ、言ってくれれば私が見てあげたのに」
 マティアスの言葉にカヤが慌てたように身を乗り出した。
「ダメです!これは私のお役目ですから、いくら兄様でもミウ様との時間は邪魔させませんわ」
「お前の方が私よりミウのそばにいる時間は長いだろう」
「それでもダメです」
 マティアスの言うことは尤もであるが、カヤは頑として譲らない。それを見て彼は肩を竦めて笑った。
 美雨はそのやり取りを聞きながら向かい合う彼らの顔をちらりと交互に見た。血縁だけあってやはり少し似ている、とそんなことをぼんやりと思う。
 いつの間にか静かになった車内にガラガラと鳴る車輪の音が響く。意識せずとも耳に入ってくるのはその音と遠くで鳴いている鳥の声。
 それらを聞きながら美雨はそっと窓の外に視線を移し、そこに広がる見たことのない景色をただじっと眺めていた。




 島と大陸を結ぶ長い橋を渡り終え、さらに先へと進むうちに馬車の揺れにも慣れたらしい。張り詰めていた美雨の気が少し和らいだように思う。
 それから幾度か休憩を挟みながら六時間ほど経った頃、外からレイリーの声が聞こえた。
「マティアス、もう少しで港です」
「分かった、ありがとう」
 マティアスが窓の外を確認すると、それにつられたように美雨も窓の外に目を向けた。それに気付いたマティアスは彼女が見えやすいようにすっと体の位置をずらした。
「見えるかい?あの港から出航するんだ」
 マティアスが指で指した方向にはかなり大きな港町があった。その先には遠くに水平線が見える海原がある。それを見た美雨がマティアスに視線を戻した。
「今度は船で行くんですね」
「そうだよ。乗ったことは?」
「あります」
 そう答えた美雨の顔が僅かに寂しそうに見えた気がした。

―― 向こうの世界のことを思い出したのか ――

 不意に思い出したことで郷愁に駆られたのかもしれない。
「辛くなったら無理せずに言うんだよ」
 マティアスは何が、というのを特定せずに言った。これだけの言葉ならば慣れない乗り物でのことを気遣っているようにも聞こえる。
 しかし、敏い彼女はその中に含んでいた意味を感じ取ったらしく、少しだけ目を伏せて頷いた。だが、いつもの通り美雨はそれを決して見せようとはしなかった。
 それからしばらくして馬車の速度が次第にゆっくりになり、静かに停止した。
「着いたみたいだ」
 マティアスが言ったのとほぼ同時にガチャッと馬車の扉が開いた。
「港に着きましたよ。ミウ、降りられますか?」
 扉を開けたレイリーはそのまま手を差し出し、美雨はそれにおずおずと掴まりながら一段ずつ降りて行った。マティアスとカヤもあとに続いて降りる。
「疲れていませんか?」
「大丈夫です」
 美雨の答えにレイリーはにこりと微笑んだ。その穏やかなやり取りに少々面白くないものを感じる。
「出航まで時間がありますから、少し休んでから船に乗りましょう」
「ではここで休むといい」
 話を横から奪うと、マティアスは美雨の腰を攫って己の腕の中に抱き寄せた。バランスを崩した彼女から小さな悲鳴が上がる。
「……マティアス」
 レイリーは眉根を寄せると、マティアスにも聞こえるように大きくため息をついた。が、彼は飄々としている。
「ん?」
「ミウが困っているでしょう。放して下さい」
「そんなことないよね、ミウ」
 わざと耳元に近いところでそう言うと、案の定、美雨はびくっと首を竦めた。後ろ向きに抱き寄せているので表情は分からないが、その反応がいちいち可愛らしい。
 美雨の反応に気を良くしたマティアスは更に彼女の体をきゅっと抱き締めた。
「あ、あの……」
「いい加減にして下さい、マティアス」
 レイリーの呆れたような、怒っているような声が聞こえ、マティアスの腕から半ば無理やり美雨を引き剥がされた。そしてそのまま彼女の手を引いて軒下にあるベンチへと向かう。
 その途中、美雨がちらりと後ろを振り返り、マティアスを見やった。困っていたくせにあからさまに邪険にするのは気が引けるらしい。行っておいで、というように手を振ってやれば彼女は少しほっとしたようにレイリーについて行く。
 マティアスはそれを眺めながらくっくっと肩を揺らして面白そうに笑った。




 手持ち無沙汰になった美雨は馬車や馬をそのまま船に運び入れる様子をぼんやりと見ていたが、しばらくして勉強用にと借りてきた本をぱらりと開いた。子供向けの童話のようなものらしい。
 書かれている文字は英語のように慣れ親しんだものではなく記号とも言えそうなものであり、言うなればアルメニア語のような文字であった。その中で読める文字を拾い、カヤから教えてもらったことを思い出しながら一文ずつゆっくりと解いていく。
「またお勉強ですか?」
 水を取りに席を外していたカヤが戻って来てひょいと美雨の手元を覗き込んだ。
「少しでも早く覚えたくて」
 美雨はそう言いながら手渡された器を受け取った。ありがとう、と礼を言ってからそれに口を付ければ冷たい水が喉を通っていく。
「ミウ様は本当に勤勉ですね」
「違うよ」
 そう言って美雨はほんの少し苦笑する。
 勤勉なわけではない。ただ人に頼らずにいられるようになりたいだけだ。
 字を覚えれば独学で様々なことを本から学ぶことが出来る。そうすれば必要以上に誰かの手を煩わせることはない。ただそう思ったから必死になって学んでいるだけだ。
「ミウ様、何か分からないところは?」
 美雨がそんなことを思っているとはつゆ知らず、カヤは嬉しそうに言った。馬車の中でマティアスに言っていたように、美雨に字を教えるのが楽しいのだろう。
 それじゃあ、と美雨は読めずにいた単語を指で差した。その文字を読んだカヤが頷き、それから講義が始まった。彼女の教え方はとても丁寧で分かりやすく、短期間で多く覚えることが出来たのはそのお陰だろう。
「ありがとう」
「いいえ」
 美雨の礼に嬉しそうに破顔する彼女の笑顔を見てハッとした。彼女の笑顔が一瞬、美陽のそれと重なって見えたのだ。
 自分にはない、太陽のような笑顔。見ているこちらが嬉しくなるような、そんな笑顔。
「ミウ様?」
「ううん……何でもない」
 そう言って微かに浮かんだ寂しげな色を隠しながら、彼女に答えるように美雨は少しだけ微笑んだ。






日向雨 TOP | 前ページへ | 次ページへ






inserted by FC2 system