「おはよう、ミウ」
 翌日、昼食を終えた頃を見計らってマティアスが部屋に迎えにやって来た。
「おはようございます」
「アヴァード様から聞いているとは思うけど、今日からは私が舞の手解きをするからね」
「はい、よろしくお願いします」
 礼儀正しく受け応える美雨にマティアスはにっこりと笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、ミウ、早速だけど少し広い場所に移ろうか。錫杖を忘れないようにね」
 言われた通りアヴァードから受け取った錫杖を持って廊下に出る。彼の後ろについて連れて行かれた先は何もないガランとした広い部屋だった。
「ミウは舞を舞ったことは?」
 壁や天井など部屋を見回していた美雨にマティアスが尋ねた。彼に視線を戻すとその手には美雨のものより少し長い錫杖が握られていた。
「ありません」
「そう。でもそれほど難しくはないからきっとすぐに覚えられるよ」
 マティアスはそう言いながら部屋の中央へと歩いて行った。美雨がその後をついて行こうとすると彼は片手を上げてそれを留めた。
「一度舞ってみせるからミウはそこで見ていて」
 その場に立ち止って頷くとマティアスはふっと微笑み、それから錫杖を床に打ち付けた。シャン、と鈴が鳴り、それを合図に彼が動き始めた。
 衣を翻しながら流れるように舞う彼の動きに美雨は目を奪われた。その表情にいつものような甘さはなく、凛とした雰囲気を纏わせている。

―― 綺麗…… ――

 ダンスや舞には無縁の美雨でも分かるほど、マティアスのそれは美しかった。絶えず動いているのに足音は聞こえず、静かな部屋の中、錫杖の鈴の音だけが細く空気を震わせる。
 錫杖の先で地を撫でるようにしながらくるりと回って円を描くとマティアスはその中心に両膝をつき、目の前に錫杖を静かに、しかし力強く突き立てた。最初と同じように鈴の音が響く。
「……とまあ、こんな感じだよ」
 マティアスが立ち上がりながら言ったその声にハッと我に返り、美雨は深く息を吸った。知らずに息を詰めて見ていたらしい。
「いま舞ったのは全部で四部。一つの神殿で一つの舞を、そして "光耀の儀" の時に今のように全てを繋げて舞うんだ」
「……難しそう」
 難しくはないと言っていたが、思わず不安が零れてしまった。
「大丈夫、私が教えるんだから」
 マティアスはそう言うと美雨の右頬をそっと包んだ。反射的に体を引こうとするが反対の手がいつの間にか腰を攫っていて身動きが出来ない。内心で慌てていると、美雨の瞳を覗き込むようにして見ていたその目がいたずらっぽくふっと細められた。
 マティアスが苦手な理由はこれだ。
 自分と同じ見慣れた黒髪ではあるがそれが縁取る顔は作り物と見紛うほど端正で、それを際立たせている青灰色の瞳は一度捉えられたら抜け出せないとさえ思わせる。
 そして何より彼は時々言葉や行動で何かをしては美雨の反応を楽しんでいる節があり、それが一番厄介だった。
「さあ、始めようか」
 クスッと笑い声が聞こえ、それからするりと手が外された。美雨は彼から少し離れながらホッと息を吐いた。
「まずは足の踏み方から」
 それからは真面目な手習いの時間となった。
 マティアスがゆっくりと足を踏み、美雨はその動きを真似ながら動かしていく。ひとつひとつの動きはさほど難しくはないが、やはりこういった事には慣れていないのでリズムが取りにくく、思うように上手くいかない。
 だが、こうやって体を動かすのは久し振りで思いの外、いい気分転換にもなった。こうして何かに没頭している間は他のことを考えずに済むからかもしれない。
「そこで交差させて……うん、上手だ」
 マティアスは舞が上手いだけではなく、教え方もとても上手だった。アヴァードが彼を舞の師として選んだ理由がよく分かる。
 それからしばらくしてパン、と手を打ち鳴らした音が聞こえ、美雨は彼の方を見た。
「今日はここまでにしようか」
 大分集中していたのか、いつの間にかかなり時間が経っていたようだ。
「私だけもう少し残っててもいいですか?」
 習いたてだから致し方ないが、まだまだ動きがぎこちない。マティアスの動きを覚えているうちにもう少しさらっておきたかった。
 だが、彼は少し困ったように微笑むと美雨の頭を軽く撫でた。
「この舞は見た目はゆっくりだけど結構体力を使うんだ。少しずつ慣らしていかないと。ね?」
「………」
 確かに激しい動きをしているわけではないのに少し息が上がっている。だが、それでも美雨は答えを渋った。
 一日でも早く覚えてしまえばその分、早く出立出来るかもしれない。そうすることで儀式を早められるわけではないが、やはり心のどこかで焦っていたのだろう。
「明日もあるから最初から無理はしないこと。今日はもう止めるよ」
 その焦りを見透かしたようにマティアスは言った。優しい言葉ではあるが有無を言わせない強さがあり、頷かざるを得ない。
「……はい」
「いい子だ」
 マティアスは美雨の前髪を撫で付けるように上にかき上げると、そのまま彼女の額に口付けた。そういったスキンシップに慣れていない美雨は最初と同じように体を強張らせて狼狽えるだけ。
 ゆるく弧を描いた唇に美雨はまたからかわれたのだ、と気付く。
 黙ったまま視線だけで非難すると彼は愉快そうにぽんぽんと美雨の頭を撫で、それから彼女の手を取った。
「戻ろうか」
 歩き出した彼に手を引かれたまま、美雨はここへ来た道を戻って部屋へと向かった。
「ゆっくり体を休めて。明日の昼にまた迎えに来るよ」
「はい。ありがとうございました」
 笑顔でどういたしまして、と言うとマティアスは踵を返して廊下を戻っていった。
 その場に立ったまま、美雨は自分の手のひらに視線を落とす。手に残る彼の温もりが何だか落ち着かず、もう片方の手でそれを隠すようにしてきゅっと握った。
 それからは毎日のようにマティアスに舞を習い、ただひたすら教わったことを繰り返しさらって体に覚え込ませていった。




「巡礼への出立は一週間後とする」
 ある日の午後、部屋を訪れたアヴァードは単刀直入にそう告げた。
「一週間後……」
 あと僅かな日数に美雨が少し驚いたように呟くと、アヴァードはいつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「そなたは実に真面目で頭の良い娘じゃったし、舞の手習いも順調のようであるしの。予定していたよりもかなり早まった」
 あれで文字が読めていればもっと早く、もっと多くのことを学べていたであろう。それを思うともっと教えてやりたかった、と少し残念になる。
「さて、次の満月まで五ヶ月を切った。そのうちの四ヶ月程で四神殿を巡り、残りはここで "光耀の儀" に向けて準備することになる。同行する者は四神官とカヤじゃ」
 己の心残りは置いておいて話を戻し、大まかな日程を伝える。美雨は大人しく相槌を打ちながら聞いていた。
「……じゃが、前にも言った通り、そなたにとっては過酷な旅となり得るかもしれぬ。それでも行ってくれるか?」
 今更、どうしてこんなことを訊いたのか分からないが、気付けば問うていた。
 美雨は一度視線を膝の上にある手に落とし、それからその瞳を真っ直ぐにこちらに向けてはっきりと頷いた。
「はい」
 その手がぎゅっと握りしめられたのをアヴァードは視界の端で見ていた。それが言葉には出さない彼女の覚悟のように思えた。
「……そうか。ありがとう」
 アヴァードはゆっくりと目を閉じ、そう言った。
「四神官にもすでに伝えてある。準備はカヤに頼んでおくので、そなたはいつも通りいればよい」
「分かりました」
「では、また何かあれば伝えに来よう」
 そう言ってアヴァードは美雨の部屋を後にした。そのまま自室へ戻ると椅子に深く座り、その背を預ける。

―― 全てが上手く運ぶといいのじゃが…… ――

 窺い知ることの出来ない先のことを憂い、思わずため息が零れた。
 これまで時折、美雨の中に暗い影のようなものを垣間見ることがあった。それ自体は多かれ少なかれ、誰もが持っているもので別に悪いことではない。
 しかし、恐らく幼い頃からそうしてきたのだろう。彼女はそれを上手く隠し、決して誰かに見せようとはしなかった。
 頼ることを知らず、弱さを見せない。
 それがこの旅にどのような影響をもたらすのかは分からない。それ以外にも禁忌の双子であることや、以前より荒廃している街や人々の心など、不安要素は多々ある。
「全ては必然……か…」
 アヴァードは窓から遠く広がる暗い空を見つめ、小さな声でぽつりと呟いた。




 そして一週間という短い時間はあっという間に過ぎ、ついに出立の日を迎えた。
 着慣れないマントを身に纏い、美雨は旅の支度を整えていた。彼女の肌の上には今ではつけることが当たり前のようになっている神具が清い輝きを放ち、その手には白銀の錫杖が握られている。
「ミウ、準備はよいか」
「はい」
 部屋に迎えに来たアヴァードの問いにはっきりと答えた美雨の心は不思議なほど落ち着いていた。彼女の後ろにいるカヤの方が少し緊張した面持ちである。
 毅然とした態度で答える美雨にアヴァードは優しげな眼差しを向けた。
「では行こう。下で皆が待っておる」
 歩き出した彼の後ろについて行くと、しばらくして廊下の先に大きな扉が見えてきた。その扉の前にはマントに身を包んで立ち並ぶ四神官の姿があった。
 その前で足を止めたアヴァードが真っ直ぐに彼らを見つめる。
「しっかりと勤めを果たし、巫女を護り通すのじゃぞ」
「はい」
 穏やかな瞳と声が威厳ある賢者のそれに変わり、恭しく頭を下げてそう答えた彼らの声は力強かった。アヴァードは深く頷き、それから美雨を彼らの元に託した。
「美雨、そなたの側にはいつも彼らがついておる。彼らを信じ、彼らを頼れ」
「はい」
「どうか無事で戻ってくることを祈っておる。そなたらにレゼルの加護があらんことを」
 そう言うとアヴァードは右手を胸に当てて目を閉じ、彼らに向かってゆっくりと頭を下げた。少し驚いて後ろをちらりと見やれば彼らもまた同じように礼をとっていた。
「さあ、行っておいで」
 アヴァードのその言葉を合図に、門番が扉に手をかけた。ぎい、と鈍い音を立てながら古めかしい重厚な扉が外へ向けて開いて行く。
 初めて出る神殿の外。ラーグというまだ見ぬ世界。

―― 私は私のやるべきことを…… ――

 そばにはカヤが控え、前にはマティアスとディオン、そして後ろにはレイリーとクートが護るように立っている。
 美雨は果てなく広がる鈍色の空を見上げ、それから真っ直ぐに前を見つめた。それから深く息を吸い込み、ゆっくりと門の外へ足を踏み出す。
 一陣の風が彼女の白い頬を荒く撫でていった。




 いま、光の巫女としての責務をそのか細い背に負い、美雨の旅が始まった。
 そしてあの日から止まってしまった彼女の小さな小さな世界が再び動き始めようとしていた――――――。






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