葵から電話があった日から万葉はそわそわと落ち着きがなく、今も部屋の中でクローゼットから服を引っ張り出し、体に当ててはベッドに放る、というのを繰り返している。
「んー……これじゃあ海っぽくないし…」
 鏡に映る自分の姿に小首を傾げ、やはり服を放り投げる。と、ケータイがメールの着信を知らせた。山積みになった服の下からケータイを掘り出し、急いでメールフォルダを開く。差出人の名前に頬が知らずと緩んだ。
『月曜なんだけど、札幌駅北口に七時半でどう?』
 その内容は拍子抜けするほど素っ気なかった。男の人とメールのやり取りなど兄以外ほとんどないのでこれが一般的なのかも分からない。長いメールは嫌だろうか、などと悩んだ挙句、結局彼と同じように簡素なメールを返すことにした。
『大丈夫です。何か持っていくものとかありますか?』
『特にないよ。足りないものは買えばいいし、矢野は水着とか自分のものだけ準備しといて』
 その中の単語に万葉の指がぴくりと反応する。
『分かりました』
『じゃあ月曜な。何かあったら連絡して』
『はい。それじゃあ月曜日に』
 パチン、とケータイを閉じてから万葉は手元に置いてあった水着を体に当てて鏡を覗いた。白地に紺のボーダー柄、ビキニだが下にはスカートがついていて、フリルも多すぎないので少し大人っぽいデザインである。
「うー……」
 本当は新しい物を買いたいところだが、バイト禁止の万葉が自由に使えるお金は少ない。悩んだところで結局、去年買ったこれを使うしかないだろう。
「……なに唸ってんだ、お前」
 突然聞こえた声に思わずビクッと肩が上がる。振り返ると部屋の戸口に春樹が立っていた。大学も夏休みに入り、数日前から帰省しているのだ。
「お兄ちゃん!!勝手に入って来ないでって言ってるしょ!!」
「いや、戸開いてっから」
 そう言えば暑いから、と半分くらい開けっ放しでいたかもしれない。言い返せずに黙り込むと春樹は呆れたように笑って部屋に入って来た。
「なに、海行くの?」
「……うん」
「へえ」
 ほんの少し間を空けて答えると、春樹は何故かニヤニヤとからかうような笑みを口元に浮かべてこちらを見ていた。
「な、なに」
「いや?別に?」
 別に、というような笑みではない。あからさまに何か含んでいる。
「なによ!」
「何でもねえって言ってるべ」
「じゃあその笑い、やめて」
「元からこういう顔ですー」
 居心地の悪さを誤魔化すようにそう言えば、春樹は更に逆撫でするような苛つく口調で言い返してくる。腹が立つのでそのまま無視してやると、彼はおもむろにベッドに座り、放り投げられた服を一枚掴んでしみじみと呟いた。
「しっかし、お前が彼氏と海とはね」
「!!」
 やはりあのニヤニヤはそれだったのだ。完全にバレていることに急激に恥ずかしさが込み上げてくる。
「まあ精々ダイエットにでも励んで下さいな」
「超いらんお世話!!」
 照れ隠しにそう叫び、万葉は春樹の手から服を取り上げる。
「いつ行くの?」
「……月曜日」
「何時?」
「……七時半……に札駅」
「ふうん」
 何でこんなことに聞かれてるのか分からないが、万葉もつい答えてしまった。
「送ってってやっか?」
「え?」
「どうせお前、母さんに言ってないんだろ?そんな早い時間に遊び行くとか何ていう訳?」
「あ……」
 そういえば考えていなかった。何かにつけて過保護な両親だ。万葉が海に、しかも彼氏と行くなどと聞いたらおそらく反対するであろう。というより、彼氏がいること自体、親には言っていない。
「あのいつもの……何だっけ、何とかちゃん」
「紗耶?」
「あ、そうそう。その子と小樽行くってことにして、行きは俺が連れてくことにしてやる。どうせその日に帰る予定だったしな」
「………」
 まさか春樹がそんなことに協力してくれるとは露ほども思っていなかった。思わずまじまじと彼の顔を見てしまう。
「ん?」
「……なんか、優しすぎて気持ち悪…」
「ほう、いい度胸だ」
 つい本音を零してしまうと、春樹は凶悪に笑いながら万葉の頭を鷲掴みにした。
「いたたたたっ!」
「んなこと言ってると協力しねえぞ」
「ごめんっ、お願いします、お兄様!」
「うむ、よかろう」
 ぎゃいぎゃいと騒いでいると階下から何やってるの、と母の呆れた声が聞こえた。




 待ちに待ったデート当日。
「ありがと」
 春樹に札幌駅まで送ってもらい、待ち合わせの北口のロータリーで車から降りた。
「おう、彼氏によろしく」
「もうっ」
 からかわれて恥ずかしくなった万葉は春樹の肩を殴る。
「じゃあな」
 ケタケタと笑い、春樹はハンドルを握り直す。万葉は彼の車が見えなくなるまで手を振り、それから辺りをきょろきょろと見回した。が、まだ待ち合わせの七時半より十分ほど早く、近くに葵の姿は見当たらなかった。
 手持ち無沙汰にふと横に目を向けると、ビルのガラスに自分の姿が映っていた。万葉はガラスを鏡代わりにしてパパッと手櫛で髪を整え、おかしなところはないかもう一度確認する。
 さっきから緊張で胸がドキドキとうるさい。心なしか顔が赤くなっているような気がして思わず手でパタパタと扇ぐ。
「お待たせ」
 万葉の目の前に一台の車が停まり、開いた窓から葵が顔を覗かせた。
「お、おはようございます」
「おはよう。まあとりあえず乗って」
「あ、はい」
 おずおずとドアに手を伸ばし、車に乗り込んだ。少しだけ煙草の匂いがする。
「シートベルトした?じゃあ出すよ」
 万葉がベルトをしたのを確認すると葵はゆっくりと車を発進させた。車の中は妙にシンとしている。
「行き先、俺が勝手に決めちゃったけど、いい?」
「あ……はい」
 なんだか葵の様子がおかしい気がした。いつもならちゃんと顔を見て話してくれるのに、いまは全然こっちを向いてくれない。車を運転しているから仕方がないのかもしれないが、会ってから一度も彼の目を見ていない。
 
―— 何か……怒ってる…? ―—
 
 知らないうちに何かしてしまったのだろうか、と急に不安になった。そしてそう思うと余計に何を話していいのか分からなくなり、万葉は自分の膝に視線を落とした。
 会話もロクに続かず、車の中は更に静まり返ってしまう。そんな居心地の悪い車内の静寂を破ったのは葵の小さなため息だった。
「ごめん」
「え?」
 赤信号で停まった時、葵はハンドルに腕を乗せたまま万葉の方を見てそう言った。ようやく彼と視線が合う。
「ちょっと大人げなかったな」
 そう言って葵は苦笑していたが、何のことを言っているのかよく分からず、万葉は首を傾げた。
「……さっきの、誰?」
「さっき?」
 更に首を傾げる万葉に、葵はすっと目を細めて言葉を付け加える。
「誰の車に乗って来たの?」
 その一言でようやく思い至ったが、今度は何でそんなことを聞くのか分からなくなる。
「……兄、ですけど…?」
「………」
 万葉が恐る恐る答えると、葵は驚いたように少し目を見開き、それから眉を下げて呆れたような笑い声を上げた。
「せ、先生?」
「いや、ごめん。すげえみっともない」
 そう言って葵は更に笑う。信号が変わり、ゆっくりと車が動き出しても葵の苦笑は止まらない。
「先生?どうしたの?」
「んー……ただのカン違い。何でもないよ」
 何だかよく分からないが、とりあえず葵の機嫌は直ったようだ。万葉はホッと胸を撫で下ろす。
「ねえ、先生」
「ん?」
「どこの海行くんですか?」
 さっきの疑問はこれ以上聞いても答えてくれなさそうだ。もうそれはこの際良しとして、万葉は話を変えることにした。
「ホワイトビーチ」
「……どこ?」
 あまり聞いたことのない海水浴場に首を傾げる。
「けっこう上のほうにあるんだ。そこなら知ってるやつとかいないだろうし」
「ふうん」
「しかも白い砂だから綺麗らしいぞ」
「へえ、楽しみ!先生も行った事ないんですか?」
「おう」
 行ったことがない割に結構詳しことを知っているようだ。万葉は少し首を傾げ、じっと葵を見つめた。
「なんだ?」
「もしかして調べてくれたんですか?」
「……まあ、な」
 その答えに万葉は思わず笑みが零れた。自分とのデートの為に葵がわざわざ調べてくれていたのだ、と思うと嬉しくて堪らなくなる。
 嬉しくてにこにこしながら葵の横顔を見続けていたら、彼に頭を掴まれ、そのまま反対の窓側を向かされた。
「いいから景色でも見てろ」
 その瞬間、ちらりと見えた耳が赤くなっていたような気がした。
「先生、照れ……」
「仕方ないだろ。海なんて最近行ってないから分かんないんだよ」
 万葉の言葉を遮り、葵が言い訳をする。それが可笑しくてさらに笑みを深めると、葵の大きな手が万葉の頭をぐしゃぐしゃとかきまわした。
「あっ、何するんですか!折角セットしたのに!」
「いつまでも笑ってんな!」
 照れ隠しの大きな声が余計に可愛く聞こえてしまい、万葉はさらに笑った。
 さっきまでの気まずい雰囲気が嘘のように車内は明るい笑い声でいっぱいになる。目的地まで片道三時間、二人は笑い合いながらドライブを楽しんだ。






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