「……暑い」
 例年にない暑さにクーラーのついていない美術準備室はちょっとしたサウナ並みに温度が上がり、葵ちゃんはだるそうにファイルで扇ぎながら呟いた。
「それ言ったら余計暑いからやめて下さい……」
 さすがの万葉もへばってしまい、スケッチブックや鉛筆を押し退けて机の上に突っ伏した。ひんやりとした天板が肌に触れて気持ちいい。
 互いの想いが通じ合い、葵と付き合い始めてから数日。万葉は放課後になると毎日とまではいかないが美術室に足繁く通った。もちろん部活と称してだが。
 "教師" と "生徒" という不安はあったものの、そんなものは簡単に吹き飛んでしまうほど、彼女の心は舞い上がっていた。
「ねえ、先生」
「んー?」
 態勢を変えずに顔だけ葵の方に向けて呼ぶと、ひどく気だるげな声で彼が答えた。どうやら本当に暑いのが苦手らしい。
「もうすぐ夏休みですね」
「ああ、そうだなあ」
 葵の怠そうな声は放っておいて、万葉はウキウキと声を弾ませた。あと一週間もすれば待ちに待った夏休み。しかも彼氏がいる初めての夏休みだ。浮かれない訳がない。
 
―— どっか行ったり出来るかな? ―—
 
 そんなことを考えながらチラリと葵を見やる。
 まだ数日しか経っていないので当たり前といえば当たり前かもしれないが、未だデートをしたことがない。秘密を守る為には目立つことは控えた方がいいに決まっているが、万葉とてやはり年頃の女の子だ、恋人とのデートに憧れはある。
「何かいいことでもあった?」
 葵の言葉に妄想の世界に行きかけた意識を取り戻す。
「な、なんで?」
「顔がにやけてる」
 そう言って葵は意地悪そうな顔でにやっと笑う。思わず緩んでしまっていたらしい顔を指摘され、途端に恥ずかしさが込み上げてきた。それを誤魔化すようにそっぽ向くと、万葉は言い訳がましく口を開いた。
「別に……夏休み楽しみだなって」
「それだけ?」
 葵はニヤニヤと口元にからかうような笑みを浮かべて万葉の答えを待っている。
 
―— 絶対分かってて言ってる…… ―—
 
 からかわれている悔しさと恥ずかしさのあまり、つい可愛げのないことを言ってしまった。
「そうですよ。紗耶といっぱい遊ぶ約束してるし」
「へえ、それは残念。せっかく遠出して海にでも連れて行こうかと思ってたのにな」
 その言葉に釣られて勢いよくバッと振り向くと、葵は頬杖をついたままこっちを見ていた。その口元にはまだ笑みが残っている。
「約束してるなら仕方ない。楽しんでおいでよ」
「わあ!!ごめんなさい!!」
 慌てて彼の机に駆け寄ると、葵は余裕たっぷりに見せつけるようにして椅子の背もたれに寄りかかった。ギシッと軋む音がする。
「何が?別に謝ることじゃないだろ」
 こちらを見やって葵が試すように訊いた。思わずグッと言葉に詰まる。
「約束してるのは本当はだけど……でも…」
「でも?」
 万葉の言葉尻を取って先を促す悪戯っ子のような葵の瞳から少しだけ視線を下げる。
「先生と……デートしたいなって…」
 観念して素直に白状すると葵は嬉しそうに笑い、それから背中を背もたれから起こすと万葉の頭を引き寄せ、ご褒美とでもいうかのようにチュッ、と触れるようなキスをした。
「よく出来ました」
「なっ……」
 一気に頬が熱くなる。
 突然のキスにあたふたと狼狽えていると、葵が万葉の腰を引き寄せて足の間に収めた。少し強引なその行動に万葉はいつもされるがままだ。
「たまには矢野からしてもらいたいもんだな」
 触れるか触れないか程度に離れた唇からそんな言葉が聞こえ、万葉は恥ずかしさのあまり体を引こうと試みる。が、焦り過ぎた所為でバランスを崩して後ろに転びそうになった。
「おっと」
 とっさに伸びた腕に抱えられて余計に恥ずかしさが込み上げる。
「まだ早いか」
 そう言って葵は苦笑しながら万葉を離す。どう返していいのか分からず俯いていたその時、ちょうど完全下校の校内アナウンスが聞こえた。少しだけホッとして胸を撫で下ろす。
「お、もうそんな時間か。じゃあそろそろ帰るか」
「はい」
 荷物をまとめて葵と一緒に準備室を出ると、万葉は玄関に、彼は職員室にそれぞれ向かった。
 
―— もう……恥ずかし過ぎる… ―—
 
 赤くなった頬を手で押さえながらバス停に向かう。
 やはりからかわれている感は否めない。が、葵のあの笑顔が見られるのなら、とむしろ喜んでしまっている自分がいることに我ながら呆れてしまう。
「夏休み……かあ…」
 万葉はぽつりと呟いた。
 あと数日、そうすれば夏休みがやってくる。
 先ほどの葵とのやり取りで益々楽しみになってきた。きっと今までにないくらい楽しい夏休みになるだろう。それを想像しながら万葉は軽やかな足取りで坂を下って行った。




 しかし、やはり期待というのは思い通りにはいかないものらしい。夏休みが始まってからずっと葵からの連絡を待っていたが一向に来ず、更に何だかんだで部活もなかったせいでまだ一度も会えていない。
 ベッドの上にごろんと横になりながら鳴りもしないケータイを手に眺める。
 
―— 何してんのかな…… ―—
 
 葵のケータイの番号もアドレスも知っている。電話しようかな、と何度も思ったが、葵の番号を出しても結局すぐに閉じてしまう。些細なことからバレてしまうかもしれない、と思うとどうしてもかけることが出来なかった。
 だが、こうやってウダウダと悩んでいても仕方がない。女は度胸だ、と妙な気合を入れて思い切って電話をかけてみる。プルッ、とコール音がしたかと思った瞬間、葵の声が受話器の向こうから聞こえてきた。
「矢野?」
「あ……えと……」
 電話に出るのがあまりに早すぎて、何を言っていいのか分からなくなった万葉は言葉に詰まってしまった。
「あ、俺出るの早すぎて驚かせた?」
 顔を見ているわけでもないのに葵は今の万葉の状況を的確に言い当てる。一瞬ぽかんとしたがすぐに笑いが込み上げてきて、くすくすと笑いながら返事をする。
「はい」
「ちょうどいま矢野に電話しようとしてたんだ」
「ほんと?」
 同じタイミングで電話をしようとしていたというだけで何故だか嬉しくなってしまう。
「おう。あ、一回切って折り返しかけるな」
「え?」
 どうして、という前に一方的に通話が切れた。ツー、ツー、と無機質な音が耳に届く。
 終了のボタンを押して首を傾げながら眺めているとすぐにケータイが震え、"先生" と書かれた文字がディスプレイに浮かび上がった。
「もしもし?」
「おう」
「何で切ったんですか?」
「ん?ああ、ケータイ代かさむかと思って」
 そんなこと全く考えていなかったので驚きだったが、言われてみれば確かにそうだ。
「でもそうしたら先生が」
「俺は社会人だからいいの」
 万葉の意見をあっさりと否定し、葵は笑った。耳元で聞こえる笑い声が何だか少しくすぐったい。
「それより悪かったな、連絡遅くなって」
「え?あ、いえ」
 そういえば一言文句言ってやろう、と思っていたはずなのに、葵の声聞いたらそんなものはどこかに行ってしまったようだ。
「先生、忙しかったんでしょ?」
「まあな。教師は色々と大変なんだよ」
 冗談っぽく言う彼にクスリと笑みを零す。
「ところで来週の月曜ってなんか予定ある?」
「ううん、何もないです」
 なんてことないみたいな普通の声で答えた万葉だったが、その内心は期待しまくりで心臓がバクバクいっている。
「じゃあ約束の海、行こうか」
「……!」
「おーい、聞いてる?」
「あ、は、はい!」
 嬉し過ぎて思わず返事するのを忘れてしまっていた。だが、慌てて返事をした万葉の顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「どこの海がいいとかある?」
「ないです!どこでもいいです!」
 葵と一緒なら、と心の中で付け足して一人で赤面する。
「じゃあ俺が適当に決めとくな」
「は、はい」
「待ち合わせはどうするかな。誰かに見られるとまずいし……そうだな、札幌駅まで出て来れる?」
「札駅?」
「おう。時間もちょっと早めで七時くらい」
 少し考えてから万葉は頷いた。
「はい、大丈夫です」
「悪いな。気をつけて来いよ」
「子供じゃないんですから」
 相変わらずの子供扱いに少しだけ頬を膨らませる。拗ねたような言い方が面白かったのか、葵はクックッと笑っていた。
「じゃあ月曜な」
「はい」
「詳しい待ち合わせ場所とかはまたあとでメールでもするわ」
「分かりました」
「おう、じゃあな。お休み」
「……お休みなさい」
 照れくささを感じながら万葉が返す。小さな笑い声が電話の向こう側から聞こえ、それからプツ、と電話が切れた。
 ディスプレイには2分37秒の文字。
 来週の約束を簡単にしただけで終わってしまった、本当に短い電話。だけどそれだけでこんなにも幸せな気持ちになれる。葵の声はまるで魔法のようだ。
 
―— 今度電話きたら録音でもしてみようかな ―—
 
 万葉はケータイを胸に抱えながら、そんな馬鹿みたいなことを考えてクスリと笑った。






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