「万葉ー、お茶入れたけど少し休憩したらー?」
 母の間延びした声が階下から聞こえ、万葉はハッとして顔を上げた。
「うん、いま行く」
 居間にいる母に聞こえるよう大きめな声で返事をしてから手元に視線を戻す。そこにはまだあの写真が握られていた。どうやら懐かしいものを見ているうちに随分と思い出に耽ってしまっていたらしい。
 万葉は少し躊躇ってから持っていた写真を膝の上に置いたままにしていたスケッチブックに挟み、パタン、と閉じた。箱には入れようか迷って結局止めた。そのままスケッチブックをベッドの上に置いてゆっくりと立ち上がる。
 階段を下りて居間へ行くとすでにお茶のいい香りが漂っていた。引き寄せられるようにテーブルに着くと、母がタイミングよく茶菓子を出してくれた。
「片付けは進んだ?終わりそう?」
「うん、大体終わったかな。あ、いらない物は全部袋に入れて廊下に出してあるから」
「なあに、お母さんに捨てさせるわけ?」
 そう言って母は冗談めかして頬を膨らませた。そういう行動が元々若く見られる年齢をさらに若く見せた。
「だって私またしばらく帰って来ないし。てことでお願い」
「あとで肩もみね」
「はいはい」
 ため息交じりで渋々といった口調の母に万葉は笑いながら返事をする。軽口を叩き合っていたお陰か、先程まで感じていた胸を締めるような切なさは鳴りを潜め、ホッと胸を撫で下ろした。
「そういえば悠平さんは何時くらいになるの?」
「んー、夕方ってだけではっきり聞いてない」
「ご飯は食べていくでしょ?」
「うん。明日仕事だから早めに帰るけど」
 会話の合間に器に盛りつけられた菓子をひとつ摘まみながら、温かいお茶を流し込む。口の中にほんのりと広がる甘さとお茶の渋さが丁度良く、片付けで程よく疲れた体に染み渡る様な感じがした。
「お兄は何時に帰るの?」
 ソファーに寝転がって本を読んでいる春樹に向かって声をかけると、彼はのそりと起き上がってこちらにやって来た。
「まあ俺もあんまり遅くならないうちに帰るけど」
 そう言って万葉が食べていた菓子をひょいと奪い、そのまま口に運ぶ。
「あ、ちょっと!そこに置いてあるでしょー」
「おー、すまん、すまん」
 全くと言っていいほど反省の色が見えない謝り方である。
「もう、いっつもいっつも……」
「いいべや、別に」
「良くないから言ってんの」
 そんなくだらないことで二人が言い合っていると、横から母の笑い声が聞こえた。
「あんたたちはいつまでたっても変わらないわねえ。子供の時と同じだわ」
「えー」
 兄妹揃って不満の声を漏らす。
「あら、息ぴったり」
「………」
 そう言って笑う母を見て二人は顔を見合わせて苦笑した。それから春樹も席に着き、三人で他愛もない話をして過ごした。
 その途中、万葉のケータイがメールの着信を知らせた。メールを開くと悠平からだった。
「悠平さん?」
「うん。こっち着くの七時頃になりそうだって」
「そう。じゃあ来たらすぐご飯食べられるようにしておくわね」
「ありがと」
 そう言ってから万葉はふと思い立った。
「ねえ、お母さん、ちょっと車借りてもいい?」
「いいけど、どこ行くの?」
 お茶のお替わりを淹れながら母が小首を傾げる。
「小物入れる箱買いに行って来ようかなって」
「箱?あんたの部屋にいっぱいあるじゃない」
「んー、もうちょっとしっかりしたやつ欲しいんだよね」
 また物を増やして、と言わんばかりの呆れた視線が突き刺さる。思わず苦笑いが浮かんでしまう。
「買い物なら車出してやるか?」
 気を利かせた春樹がそう言ってくれたが、万葉は首を横に振ってやんわりと断った。
「他にも色々回りたいから自分で行くわ」
「あっそ」
 春樹は気を悪くした風もなく、お菓子を頬張りながら手を振った。その間に母はバッグの中から車の鍵を探し出し、万葉に手渡した。
「ありがと。遅くても悠平が来る頃までには帰って来ると思うから」
「はいはい」
 それから万葉は居間を出て二階の自分の部屋に行くと、そこからバッグと上着を持って再び階下へ降りた。
「じゃあちょっと行ってくるね」
 カチャリ、と居間の扉を開けて顔を覗かせると、母と春樹が同時にこちらを振り返る。
「行ってらっしゃい」
「運転、気を付けなさいよ」
「はーい」
 少し間延びした声で返事をして扉を閉めた。
 玄関を出て母の車に乗り込むとバックミラーや椅子の位置を合わせ、それからエンジンをかけた。ブウン、と低く唸るエンジンの音を聞きながら、万葉は小さくため息をつく。
 小物を入れる箱を買いに行く、というのは嘘だった。ただ言い訳として口から出たでまかせだ。わざわざ嘘をつく必要もなかったはずなのに、どうしてか本当のことを言うのは躊躇われたのだ。
「何してんだか……」
 思わずぽつりと漏らし、苦笑する。それから万葉はハンドルを握り直すと、目的の場所に向かってアクセルをゆっくりと踏んだ。




 本当に天気のいい日だった。ぽかぽかとした気持ちのいい春の陽気だ。
 車内にはその陽の光が入り込み、スピーカーから懐かしい曲が小さな音で流れている。さっき部屋を片付けていたときに出てきたCDを持ってきていたのだ。
 それなのに運転している万葉の表情は少し固く、そして何処か悲しげだった。
 いつもとは違う通り慣れない道をナビを見ながら走っていく。家を出てから四十分程経った頃だろうか、目的の場所に着いた万葉は車を路肩の邪魔にならなさそうなところに停めた。
 エンジンを切ってからすぐに車から出ようとはせず、万葉はハンドルに腕をもたれたまま、少しだけぼんやりと窓の外を眺めた。そして緩慢な動きで額をその腕に乗せ、ハンドルの上で突っ伏した。
 溢れ出しそうになった感情を誤魔化すように、万葉はすうっと深く息を吸い込み、それを静かに吐き出した。
「よし」
 勢いよく顔を上げ、それからバッグを持つと車のドアを開けて外に足を下ろした。ドアに鍵をかけたことを確認すると、万葉はゆっくりと歩き出した。
 本州よりも一足遅く咲き始めた桜の花。
 道路沿いに造られた長く広い公園にはそれに沿うようにして沢山の桜が植えられていた。正に桜並木と呼ぶに相応しい道だった。
 桜自体はちらほらと咲き始めたばかりで、まだ蕾のままのものが多く目立つ。だが、ほんのりと薄紅色に色付き始めた木々は春の装いを見せていて、それはそれで綺麗だと思えた。
 だが、まだ見頃を迎えていないせいか、花見に来ている人はほとんどいないようだ。それに中途半端な時間というのも重なって公園内を歩く人の姿もあまり見られない。
「もっと上の方だっけな」
 万葉はぽつりと独り言ちながらぶらぶらと歩を進めていく。桜の木が立ち並ぶゆるい坂道を上り、そこで足を止めた。
 
―— あった…… ―—
 
 記憶の中にあるよりも一回りほど大きくなった桜の木。
 目的のものを見つけ、万葉は胸のあたりでぎゅっと手を握った。胸の奥が鈍く痛んだ気がした。
 木の元に歩いて行き、その幹に手を添えて上を見上げる。やけに大きくなったように感じられたが、十年近くも経てば大きくなっていて当たり前か、と一人で納得した。
「………」
 言葉なく、小さく息を吐き出す。
 今更ここへ来てどうしようというのだろうか。あの頃の記憶を、思い出を呼び起こすようなことはこの十年間避けてきたというのに。
 だが、部屋で見たあの写真に感化されてしまったのか、無性にこの場所に来てみたくなったのだ。その突発的な行動を後悔し、馬鹿みたいだ、と心の中で自分を詰る。
 いま、自分はあの頃と全く違う想いでここに立っていた。
 あの人の隣に立って一緒に見た桜はあまりにも綺麗で、その薄紅色が幸せの象徴のように思えた。だけど一人で見る景色は綺麗なのは変わらないのに、何故か悲しげに目に映る。
 万葉はやけに感傷的になっている自分に気付き、自嘲するようにふっと笑った。
 あの頃、彼が全てだった。
 一緒に歩いた道はずっと先まで続いているんだと信じていた。
「……葵…」
 呟きながら見上げた木の隙間から木漏れ日が降り注ぐ。もう夕暮れに近いのか、黄金色の光だった。
 
―— どうして…… ―—

 あの頃のことが色鮮やかに蘇ってくる。まるでついこの間の事のように、鮮明に、感情までもはっきりと。
 こんなにも鮮やかに思い出すのはあの写真を見てしまったせいだろうか。たった一枚の写真でこんなにも心が乱れてしまっていることに万葉はひどく動揺した。
 今の自分には悠平という婚約者がいるというのに未だ心の奥に彼の影が残っていて、十年も経った未だにこの心を奪っているというのだろうか。
 違う、と万葉は口の中で呟き、自分に言い聞かせる。
 ずっと心の中で燻っていたものがあるせいだ、と。あの時、言いたかったこと、言えなかったこと、そして聞けなかったことがあるせいだ、と。
 そう、本当はずっと知りたかったことがあった。
 だけどそれを知る術はもうない。その答えを知っている葵に逢うことはきっともうないのだから。
 
―— ねえ、葵…… ―—
 
 ここにいない彼に問いかけ、万葉は答えてくれるはずのない桜の木に縋るような視線を向けた。






COLORS TOP | 前ページへ | 次ページへ






inserted by FC2 system