「あ、矢野」
 毎日、朝と帰りに必ず葵の姿を見れる日々にも慣れて来た頃だった。昼休み、購買で買い物をしている紗耶を待っていると葵に声をかけられた。
「はい?」
「今日は部活出る?」
「一応そのつもりですけど」
「ちょうど良かった。ちょっと手伝ってもらいたいことあるんだけど、部活前に少し時間いい?」
「はあ」
 何だろうか、と思いながら返した気のない返事を葵は肯定ととったようである。
「じゃあ放課後、美術準備室に来て」
「分かりました」
「頼むな」
 万葉の了承を得ると葵はそう言って軽く片手を上げ、廊下を歩いて行った。その後ろ姿を無意識のうちに目で追いかける。と、目の前に紗耶の顔がどアップで現れた。
「万葉?」
 手にパンとジュースを抱え、彼女がじっと覗き込んでいる。
「ご、ごめん。ぼーっとしてた」
 葵を追っていた視線に気付かれないように慌てて紗耶に向き直って笑顔を作る。が、そんなことでは紗耶の勘の良さは誤魔化せない。
「葵ちゃん?」
 万葉はぎくりと顔を強張らせた。
「えっと……うん」
「何か用だったの?」
「あ、いや、私じゃなくて先生が、ね。なんか部活前に手伝って欲しいことあるって言われて」
 動揺を隠しながら答えると紗耶はふうん、と言って目を細めた。
「な、なに?」
「なんかさあ、やっぱり葵ちゃんて万葉のことお気に入りだよね」
「は?」
 以前にも紗耶はそんなことを言っていたが、やはり万葉も同じ言葉を返した。
「だって学級委員でもないのに手伝い頼むとか、気に入ってるとしか思えないんだけど」
「それは……」
 何の手伝いかは知らないが、確かに手伝いならば学級委員に頼んで然るべきではないだろうか。それについては万葉も反論出来ず、言葉を濁した。
「それにほら、絵とかもマンツーで教えてるしさ」
「美術部員だからだよ」
「部員なんて他にもいるじゃん」
「でも幽霊部員ばっかりだから。他にも私みたいに部活出てる子いれば同じことしてるって」
 もしも紗耶の言う通り葵に気に入られているとしても、真面目に活動する部員だから少し目をかけてくれているだけだろう。
「えー」
「ほら、食べる時間なくなっちゃうよ。早く戻ろ」
 そう言って促すと、紗耶はまだ納得していない様子で不満の声を漏らしながらも渋々歩き始めた。
 これでこの話は終わったと思って安心していると、教室に戻って買ってきたパンを頬張っているときにまたしても妙な方向に話が流れた。
「万葉ってさ、本当に好きな人いないの?」
「どして?」
「いつも私の話聞いてくれてるけど、万葉からそういうの聞いたことないから」
 その口調は若干、拗ねているようにも聞こえる。
 どう答えようかと迷っていると、紗耶がまた唐突なことを言い出した。
「野宮君とかどう?」
「……どうって言われても…」
 同じクラスになってからまだ二ヶ月ほどしか経ってないのにどうも何もない。それに何より、いま自分の心を占めているのはただ一人の存在で、他に目を向ける余裕などどこにもなかった。
「隣の席がカッコいい男の子なんて美味しいシチュエーションじゃない」
「何言ってんの、紗耶だって野宮君の斜め前じゃない」
 若干苦笑しながら答えると、紗耶は何故か力説し始めた。
「違う!隣っていうのがいいんだよ。もしくは前」
「なんで前?」
「授業中とか堂々と見れるじゃない」
 したり顔の紗耶に万葉は思わず吹き出した。
「あははっ、何それ」
「だって何にもないのにじっと見ることなんて出来ないでしょ」
「それはそうだけど」
「笑わないでよー」
 クスクスと笑いを堪えながら答えると紗耶は唇を尖らせ、それから万葉の顔を覗き込むようにして見た。
「でもほんと野宮君、いいと思うんだけどなー」
「俺が何?」
「わあっ!」
 突然現れた洸大に万葉と紗耶は揃って声を上げた。その声の大きさに洸大は顔を顰めて片方の耳を塞いでいる。
「急に話に入って来ないでよ」
 少し怒ったような口調で紗耶が言ったが、当の洸大は飄々とした様子である。
「自分の名前聞こえてきたから気になったんだよ。で、何の話?」
 紗耶はちらりと万葉の方を見やると、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。その笑みに嫌な予感がした。
「野宮君どう?って万葉に勧めてたところ」
「ちょ……」
 万葉は慌てて紗耶の腕を引っ張った。が、すでに遅く、洸大はからかうような声音でへえ、と言ってこちらを見ていた。
「ち、違うから!紗耶が勝手に言ってただけで……もう、紗耶!」
「ごめんごめん。万葉、可愛くってつい。野宮君もごめんねー」
 素直に謝りはしたが、反省の色が全く見えない様子である。
「ん?俺は別に謝られることないけど。むしろ面白い」
「………」
 
―— 似た者同士…… ―—
 
 そんなことを心の中で思いながら小さくため息をつき、情けなく眉を下げる万葉を余所に、洸大と紗耶は愉快そうに笑った。




 その日の放課後、万葉は美術室に向かった。
 鍵はすでに開けてあったらしく、ドアに手をかけるとガラリと音を立てて開いた。そのまま言われた通りに準備室へと足を向け、すうっと息を吸い込むと準備室のドアをノックした。
「空いてるぞ」
 中から葵の声が聞こえ、無条件に心臓が跳ねた。それと同時に紗耶の言葉が頭の中に蘇る。

"やっぱり葵ちゃんて万葉のことお気に入りだよね"

 万葉はそれを振り払うように小さく頭を振ると、ドアノブに手をかけてそれを開いた。
「失礼します」
 中に入ると奥にある机に座っている葵の姿が目に入った。机の上には教科書やら何やらが絶妙なバランスで崩れずに積み重ねられている。
「手伝いって何ですか?」
「うん、これクラスの人数分コピーしといて」
 葵はそう言って万葉にコピーの原本を手渡した。反射的に受け取ってしまったが、万葉はそれを見て一瞬止まった。
「……先生」
「ん?」
「これ自分で出来ますよね?」
 原本に目を落としたままいつもより低い声で問いかける。そしてその答えは想像通り、ふざけたものだった。
「うん、めんどくさくて」
 返ってきた言葉に万葉は久々にイラッとした。紗耶の言葉に感化されて妙な期待を抱いてしまった自分自身にも腹が立つ。気に入られているどころか、ただ単に都合よく使われているだけだ。
 女子からイケメン教師とか言われて調子に乗ってるのか、と言葉には出さずに文句を言いながら椅子に座っている彼の後ろ姿に不満げな視線を向ける。
 ワックスでくしゃっとセットした頭が目に入り、万葉はパッと目を逸らした。
 
―— 見なきゃよかった…… ―—

 葵の黒髪が陽の光で薄茶色に透けて見えた。ただそれだけだが、それを思わず綺麗だと思ってしまった自分が悔しい。
「……コピーすればいいんですね」
「おう、よろしく」
 それ以上は言葉が出てこなくて、万葉はただ黙々とコピーをとり続けた。
 背を向けているから分からないが、葵も何か仕事をしているのだろう。会話のない部屋の中にコピー機の規則的な音だけが聞こえていた。
 
―— 何か……緊張する… ―—
 
 そう思ってから二人きり、ということに今更ながら気が付いた。一度だけぎゅっと目を瞑り、ドキドキと打ち付ける心臓の音を治めようと試みる。
「矢野ってさあ」
「え?」
 そんな時に唐突に呼ばれ、驚いて思わず声が裏返った。自分だけが変に意識しているみたいに思えて恥ずかしくなる。
「綺麗な色、使うよな」
「色?」
 いきなり何の話だろう、と万葉はコピーをとる手を止めて振り返り、怪訝な顔で葵の背中を見つめた。
「前にスケッチブック見せてもらっただろ。その時に思った」
「あ、ありがとうございます」
 褒められたのか何なのかよく分からないが、万葉は何だか照れくさくてまたコピー機に向き直ると休めていた手を再開させた。機械の単調な音が再び響く。
「だから矢野の絵は名前見なくてもすぐに分かるんだ」
「それは……美術の先生だからですよ」
 万葉は苦笑しながらそう答えた。それ以外に思い付くことなんてひとつもない。
 だが、葵から返ってきた答えは万葉の想像など容易く覆すものだった。
「どうかな……お前だからだと思うな」
 そう言った葵の声があまりにも甘く聞こえ、万葉は思わず赤面した。
 
―— やだ…… ―—
 
 さっきから変に意識しているから意味深に聞こえてしまうだけだ、と万葉は自分に言い聞かせる。葵にとっては何の意味もなく言ったことに違いない。
「そ……そういうこと他の生徒にも言ってるんですか?だから勘違いされるんですよ」
 赤くなった顔を誤魔化そうとして適当に言った言葉だった。が、葵が他の女の子達にそういうことを言っているのを想像した瞬間、胸にチクリと嫌な痛みが走った。
 自分で言った言葉に自分で傷付いていれば世話ない。一人で勝手に落ち込んでいると、ふとコピー機に影が落ちた。
 万葉が振り向いたのと同時に、後ろから伸びてきた手がコピー機の上にトン、と置かれた。
 すぐに触れられそうなほど、二人の距離が近くなる。
「なに……してるんですか…?」
 万葉は目の前にある端正な顔を半ば呆然としながら見上げた。辛うじて出てきた声は掠れてひどく小さい。
「矢野は?」
「え?」
「矢野は勘違い、してくれないの?」
 甘えるような低い声。
 持っていた紙が万葉の手の中から滑り落ち、バサッと床に散らばった。






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